
みづからを絶えず創り上げつつ、
こころは己れのありやうに気づく。
世の精神、それは勤しみ続ける。
みづからを知ることにおいて、新しく甦り、
そして、こころの闇から汲み上げる、
己れであることの意欲の稔りを。
Sich selbst erschaffend stets,
Wird Seelensein sich selbst gewahr;
Der Weltengeist, er strebet fort
In Selbsterkenntnis neu belebt
Und schafft aus Seelenfinsternis
Des Selbstsinns Willensfrucht.
創る人は幸ひだ。
生み出す人は幸ひだ。
育てる人は幸ひだ。
金と引き換へにものを買ひ続け、
サービスを消費し続ける現代人特有の生活のありやうから、
一歩でも踏み出せたら、その人は幸ひだ。
その一歩は、料理を作ることや、
手紙や日記を書いてみることや、
花に水をやることや、ゴミを拾ふことや、
そんなほんの小さな行ひからでもいいかもしれない。
この手と脚を動かし、世と触れ合ふ。
そのやうな行為によつてこそ、
みづからを創り上げることができ、
その行為からこそ、
こころは己れのありやうに気づく。
そして、「世の精神」。
それは、一刻も休まず、勤しみ、生み出してゐるからこそ、
「世の精神」であり、だからこそ、
太陽や月は周期を持ち、四季は巡る。
「世の精神」はそのやうにして絶えず勤しみながら、
人に働きかけ、
また人からの働きかけを受けて、
絶えず己れを知りゆかうとしてゐる。
「世の精神」みづからが、人との交流を通して、
己れを知らうとしてゐる。
「世の精神」は、人の働きを待つてゐる。
そして更に「世の精神」は、
人といふものにみづからを捧げようとし、
人といふものから愛を受け取ることを通して、
より確かに己れといふものを知りゆき、
己れを知れば知るほど、
そのつど新たに新たに「世の精神」は甦る。
同じく、わたしたち人は、
そんな「世の精神」に倣ひつつ、
地球上のものといふものに働きかけ、
ものを愛し、ものに通じていくことをもつて、
みづからを新たに新たに知りつつ、
たとへ、肉体は年老いても、
そのつどそのつどこころは甦り、
精神的に若返ることができる。
「世の精神」には、人が必要であり、
人には「世の精神」が必要なのだ。
我が国、江戸時代中期を生きた稀代の国学者、
本居宣長(1730-1801)も、
そして、ゲーテ(1749-1832)といふ人も、
その「世の精神」に倣ひ続け、
「ものにゆく道」を歩き通した人であり、
両人の残された仕事の跡を顧みれば、
晩年に至るまでのその若々しい生産力・創造力に驚かされる。
シュタイナーは、そのゲーテのありかたをかう言ひ当ててゐる。
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ゲーテは、ひとたび、こんな意味深いことばを語りました。
「生産的であるもののみが、まことである」
それは、かういふことです。
人は、きつと、みづからを、まことの有するところとなします。
そして、まことは働きかけます。
そして、人が生きて歩むとき、まことは、まことであることの証を、生産的であることを通して見いだします。
これが、彼にとつて、まことの試金石でした。
すなはち、生産的であるもののみが、まことです。
(1908年10月22日 於ベルリン 講演「ゲーテの密やかなしるし」より)
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秋には、
「己れの力」が「意欲の稔り」として発露してくる。
創ること、生み出すこと、育てることなどの行為は、
わたしたち人にこころの確かさ、安らかさ、活発さを取り戻させてくれる。
そして、行為し、ものと交はり、人と交はる時に、
各々人は初めて、己れのこころの闇に直面する。
壁に突き当たる。
しかしながら、その己れの闇を認め、赦すことからこそ、
「わたしはある」「わたしはわたしである」といふ、
こころの真ん中の礎である情に目覚め、
己れであることの意欲の稔りを、汲み上げていく。
「ものにゆくこと」「生産的・創造的であること」、
それがまことへの道だ。
みづからを絶えず創り上げつつ、
こころは己れのありやうに気づく。
世の精神、それは勤しみ続ける。
みづからを知ることにおいて、新しく甦り、
そして、こころの闇から汲み上げる、
己れであることの意欲の稔りを。
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