今日、講座を「ことばの家」でしてゐて、
このアントロポゾフィーなる精神科学を、
日本の文化の文脈で語り直すこと、
しつかりと日本語で語ること、
しつかりと自分自身のことばで語ること、
その大切さを話してゐて、
どうせならわたしの母語である大阪弁で語ることがよい、
なんてことになり、
さうしてみたら、
いやあ、驚きました。
大阪弁になつた途端に、
どれほどほつとした雰囲気が一気にその場に満ちたことか。
我が家である「ことばの家」においても、
稽古場であり、講義の場であり、
舞台でもあるこの場では、
わたしはこの部屋に入ると、
全く無意識に、おのづから、
標準語で仕事をしてゐました。
今日、おそらく初めて、
生徒さんの前で、
大阪弁で仕事をさせてもらへたのでした。
これは、思ひもかけぬことで、
わたし自身、いつも以上にとてもリラックスしながら、
仕事ができたのでした。
これも、講座を聴いてくれる方々がゐるからです。
その方々が新しいものを、
わたしから引き出してくれるのです。
いやあ、母語の恵み、それは、
人にこころから情の通ふことばを話させてくれるのですね。
仕事上、標準語を使ひながらも、
人それぞれの母語である方言は、
人それぞれ大切にした方がいいのですね。
ことばと自分自身との距離を改めて見つめる上で、
欠かせない二重性、豊かさを人にもたらすやうです。
これは、きつと、母国語と外国語との間でも、
多いに感じられることではないかと思ひます。
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