昔の大多数の日本人は、
米作りに従事する農民でした。
手足をフルに使つて農作業に勤しんでゐました。
その農作業は経済生活の営みであり、
同時に信仰生活の営みでありました。
手足の営みが、
胸の奥深くの神との繋がりを、
リアルに実感させてくれてゐました。
いま、日本人の大多数は農民ではなく、
スマホを手に握りしめるやうになりました。
わたしたちの大多数はもう、
米作りに従事してゐません。
しかし、米をこの手で作りはしないのですが、
自分に与へられてゐる仕事に、
こころを込めて勤しむことで、
何かをまごころを込めて作りだすこと、
生みだすことはできる。
さうですよね。
いま、かうしてインターネットといふ、
極めて高精度で便利なものを
わたしたちは手にしてゐることで、
大量の情報を得ることができてゐます。
しかし、それゆゑに、
わたしたちは表層的な知に恵まれ過ぎて、
頭でつかちにならざるを得ず、
一方で、わが手足を使つて、
何をすればいいのか、
分からなくなつてゐはしないでせうか。
手足をもつて何かをする、
何かを生みだすことができたとき、
その意欲の発露は、
頭でつかちになりがちなわたしたち現代人にも、
健やかさを取り戻させてくれます。
頭でつかちとは、
「自分にはすべてが分かつてゐる、
すべてを見渡すことができる」と、
鳥瞰的・俯瞰的立場に立ちたがることを言ひます。
一方、
わたしたちの手足は、
いま、ここにしか、
触れることができません。
しかし、その手足こそが、
世とリアリティーを持つて繋がり、
世に何かを生み出すことのできる、
通路であります。
いま、わたしたちは、
みづからの手足を使つて何をしませうか。
自分自身を敢えて俯瞰的立場に置かず、
世のひとところに立つて、
この手足をもつて生きてゐることをしつかりと弁へることで、
いま、ここで、
自分に与へられてゐる持ち場に徹することが、
人を健やかにするやうに思へてならないのです。
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