
松本 竣介《男の横顔》
わたしはいま、わたしのありやうをかう感じる、
世にあるものから遠ざかれば、
みづからにおいてみづからが消え失せ、
そして、己れの基の上にのみ立つならば、
みづからにおいてみづからをきつと殺してしまふ。
So fühl ich erst mein Sein,
Das fern vom Welten-Dasein
In sich sich selbst erlöschen
Und bauend nur auf eignem GrundeIn
sich sich selbst ertöten müßte.
秋へと少しづつ歩みを進めていくうちに、
わたしたちは、夏の憶ひを何度も反芻し、
辿りなほす作業に勤しむことができる。
暑かつたこの夏、
何を想ひ、何を考へ、何を感じ、何を欲したか・・・。
さう想ひ起こし、辿り直すことによつて、
人はみづからの内で、
だんだんと己れの力が強まつてきてゐるのを感じる。
それは、
<わたし>の目覚めの時期が
秋の訪れとともに再び巡つてくるといふことでもある。
<わたし>の目覚め、己れの力の強まり。
しかし、今週の『こよみ』においては、
その<わたし>の目覚め、
己れの力の強まりから生まれてしまふ危うさに対して、
バランスを取ることが述べられてゐる。
世にあるものから遠ざかれば、
みづからにおいてみづからが消え失せ、
そして、己れの基の上にのみ立つならば、
みづからにおいてみづからをきつと殺してしまふ
『いかにして人が高い世を知るにいたるか』
(鈴木一博訳)の「条件」の章において、
「人がだんだんに
みづからを外の世に沿はせなくして、
そのかはりに、
いきいきとした内の生を育むこと」
の大切さが書かれてあるが、
それはこれからの季節に
わたしたちが勤しむこととして、
意識されていいところだ。
しかし、その内の生を育むことが、
みづからの内に閉ぢこもることではないことも
述べられてゐる。
ーーーーーーーー
●静かに、ひとりきりで、
みづからを深める一時一時には、
みづからが生きたこと、
外の世が語りかけてきたことを、
まさしく静かに、ありのままに想つてみてほしい。
どの花も、どの動物も、どの振る舞ひも、
そのやうな一時において、
思ひもよらない秘密をあかすやうになる。
●享受した後に、
その享受したことから
なにかが顕れるやうにする人が、
みづからの知る才を培ひ、育てる。
その人が、きつと、
享受することだけをありのままに想ふとかではなく、
享受しつづけることを諦めて、
その享受したことを内なる働きによつて
消化するといふことをこそ習ひとするやうになる。
ーーーーーーーー
過ぎ行く現象の中で、
何が過ぎ行かず、留まるものか、さう問ふ練習。
外の世との交渉の中で、
みづからの共感・反感そのものを見つめる練習。
あのときの喜び、痛み、快、不快が、
何をわたしに教へてくれようとしてゐるのか。
さう問ふ練習。
それは、享受したこと、感覚したことを、
消化するといふこと。
そのやうな一時一時において、
「思ひもよらない秘密」があかされる道が
だんだんと啓かれてくる。
そして、もう一度、享受するといふこと、
外の世に己れを開くことの大切さが述べられる。
ーーーーーーーー
●<わたし>を世にむけて開いてほしい。
その人は、きつと、享受しようとする。
そもそも、享受すればこそ、
外の世がその人へとやつてくる。
その人が享受することに対して
みづからを鈍らせるなら、
周りから糧となるものを
取り込むことができなくなつた植物のごとくになる。
しかし、その人が享受することにとどまれば、
みづからをみづからの内に閉ざす。
その人は、その人にとつてはなにがしかであつても、
世にとつては意味をもたない。
その人がみづからの内においていかほど生きようとも、
みづからの<わたし>をすこぶる強く培はうとも、
世はその人を閉め出す。
世にとつてその人は死んでゐる。
●密やかに学ぶ人は、享受するといふことを、
ただみづからを世にむけて気高くする手立てと見てとる。
その人にとつては、享受するといふことが、
世について教へてくれる教へ手である。
しかし、その人は享受することで教へを受けたのちに、
仕事へと進む。
その人が習ふのは、習つたことを
みづからの智識の富として貯へるためではなく、
習つたことを世に仕へることのうちへと据ゑるためである。
ーーーーーーーー
夏から秋へ、そして来たる冬へと、
<わたし>を目覚めさせていくこと。
しかし、それは、「仕事」をすること、
「世に仕へること」へと繋げていくことによつてこそ、
その人の本当の糧、本当の力になつていく。
外の世との交渉を絶たないこと。
内において、メディテーションにおいて、
外の世のことを深めること。
そして、その深まりから、
外の世に働きかけていくこと。
それが、
密やかな学びにおける筋道だ。
わたしはいま、わたしのありやうをかう感じる、
世にあるものから遠ざかれば、
みづからにおいてみづからが消え失せ、
そして、己れの基の上にのみ立つならば、
みづからにおいてみづからをきつと殺してしまふ。
【こころのこよみ(魂の暦)の最新記事】