世のことばが語る、
そのことばをわたしは感官の扉を通して
こころの基にまでたづさへることを許された。
「あなたの精神の深みを満たしなさい、
わたしの世のひろがりをもつて。
いつかきつとあなたの内にわたしを見いだすために」
Es spricht das Weltenwort,
Das ich durch Sinnestore
In Seelengründe durfte führen:
Erfülle deine Geistestiefen
Mit meinen Weltenweiten,
Zu finden einstens mich in dir.
閑さや岩にしみ入る蝉の声 松尾芭蕉
「蝉の声」は耳に聞こえる。
時に、聴く人の全身を圧するやうに鳴り響く。
「閑さ」はどうだらうか。
「閑さ」は、耳を傾けることによつて、
聞き耳を立てることによつて、
初めて聴くことができるものではないだらうか。
「閑さ」とは、本来、
耳といふ感官を超えた「感官」によつて
受け止められるものではないだらうか。
芭蕉は、「蝉の声」を通して、
「閑さ」を聴いたのだらうか。
「閑さ」を通してあらためて、
「蝉の声」が聞こえてきたのだらうか。
そして、芭蕉は、
「蝉の声」の向かうに、
「閑さ」の向かうに、
何を聴いたのだらうか。
芭蕉は、旅しながらメディテーションをする中で、
そのふたつの聴覚の重なりの向かうに、
己れが全身全霊で何かを受けとめるありさまを
「おくのほそ道」に記した。
それは、
芭蕉によるひとつの精神のドキュメントであり、
心象スケッチであり、
春から秋にかけての「こころのこよみ」であつた。
この週の『こころのこよみ』に、
「世のことばが語る」とある。
わたしもことばを語る。
しかし、世がことばを語るとはどういふことだらうか。
「世のことば」が語るとはどういふことだらうか。
その「ことば」は、
この肉の耳には聞こえないものである。
耳といふ感官を超えた「感官」によつて
受け止められるものである。
メディテーションを通して、
「こころの基にまでたづさへることを許された」
ことばである。
『いかにして人が高い世を知るにいたるか』より
人が人といふものの中心を
いよいよ人の内へと移す。
人が安らかさの一時(ひととき)に
内において語りかけてくる声に耳を傾ける。
人が内において精神の世とのつきあひを培ふ。
人が日々のものごとから遠のいてゐる。
日々のざわめきが、その人にとつては止んでゐる。
その人の周りが静かになつてゐる。
その人がその人の周りにあるすべてを遠のける。
その人が、また、
そのやうな外の印象を想ひ起こさせるところをも
遠のける。
内において安らかに見遣るありやう、
紛れのない精神の世との語らひが、
その人のこころのまるごとを満たす。
静けさからその人への語りかけがはじまる。
それまでは、
その人の耳を通して響きくるのみであつたが、
いまや、その人のこころを通して響きくる。
内なる言語が ―内なることばが―
その人に開けてゐる。
この夏の季節にメディテーションをする中で、
精神の世が語りかけてくることば。
あなたの精神の深みを満たしなさい、
わたしの世のひろがりをもつて。
いつかきつとあなたの内に
わたしを見いだすために。
この「いつか」とは、クリスマスの頃であらう。
この週の対のこよみが、第36週である。http://kotobanoie.seesaa.net/article/472735195.html
そこでは、「世のことば」キリストが、
人のこころの深みにおいて密やかに語る。
芭蕉は、俳諧といふことばの芸術を通して、
四季の巡りと共に深まりゆくこころの巡りを
詠つた人である。
彼はいまも、
夏の蝉の声といふ生命が漲り溢れてゐる響きの向かうに、
静けさを聴き取り、
その静けさの向かうに、
「世のことば」を聴いてゐるのではないか。
世のことばが語る、
そのことばをわたしは感官の扉を通して
こころの基にまでたづさへることを許された。
「あなたの精神の深みを満たしなさい、
わたしの世のひろがりをもつて。
いつかきつとあなたの内にわたしを見いだすために」
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