あるものの前を多くの人が通り過ぎてゆく。
しかし、ひとりがそのものの前に立ち止まり、
そのものを見初める。
そして、その人は、
他の誰も見向きもしなかつたそのものを
愛し始める。
愛がこころに宿る時には、
こんなプロセスがあることを、
シュタイナーは『自由の哲学』の第一章で述べてゐます。
いろいろと頭で考へてから愛するのではなく、
一目見たその時から、
なぜか、愛するこころが発動する。
さう、「考へる」からではなく、
「見る」から始まるのです。
そして、「見る」とは、
そもそも、いつも、
「見初める」であるはずです。
「見る」といふ行為は、
いつも新しい何かを人に運んでくれます。
幼な子は、いつもそんな目を持つてゐますし、
初々しいこころを持つ大人も、
そんな目を持ち続けてゐます。
その「見初める」といふ、
愛に向かふ初々しいこころの働きに、
皆さんも覚えがあると思ひます。
実は、芸術実践とは、
この「見初める」働きであり、
この働きを繰り返し、繰り返し、
繰りなしていくことです。
眼を働かせるそのたびごとに、
手を動かすそのたびごとに、
からだを使ひ、身を震わせるそのたびごとに、
新しく、まつさらの感覚に見舞はれる。
決まり切つた答へなどなく、
行為をするたびごとに、
新しい精神に出会へる。
それは、
芸術行為の本質的な道筋です。
それは、
世の何かを愛することに向けての、
自己認識の道、
自由への道なのです。
たとへば、誰かを愛する時、
眼で、耳で、からだで、感官で、
その人と出逢つたその時に、
その人の魅力と真価を理屈抜きに感じてしまふがゆゑに、
その人を愛し始める。
その人への愛がこころに芽生へる。
それは、
その人の内に、
その人を愛し始めてゐるわたしを見いだす、
別のことばで言へば、
世の内にみづからを見いだす、
そんな自己認識のひとつの方向なのです。
自己認識、
みづからを知る、
それは、自由への道でもあります。
芸術実践とは、
そのやうな「見初める」ことから
愛することへの道を歩いて行くことであり、
それこそが、自己認識へと至る道となるのです。
次に自己認識のもうひとつの方向も、
シュタイナーは述べてゐます。
つづく・・・。
『第二金曜アントロポゾフィークラス・オンライン』
『第二土曜アントロポゾフィークラス・オンライン』
『真夏の連続講座 言語造形 その実践と理論』7/23〜7/26
【アントロポゾフィーの最新記事】
- 今年から始まる仕事 アントロポゾフィーハ..
- 冬、考へを育む季節
- 「靈・ひ」の学び 言語造形とアントロポゾ..
- 子ども時代E(完) 〜シンデレラ、わたし..
- 子ども時代D 〜順序を間違へないこと〜
- 子ども時代C 〜言語からの愛、言語からの..
- 子ども時代B 〜彩りの豊かさ〜
- 子ども時代A 〜自己信頼の基 あのね か..
- 子ども時代@ 〜大人の内なる子ども時代〜..
- 聴くことの育み 〜青森での日々から〜
- りんごのまんなか*夢の種
- 課題としての結婚
- 結婚の意味
- ふたつの悪魔
- これが自己教育の要かと・・・
- シュタイナーの新翻訳「人と世を知るという..
- わたしといふ人に与へるべき水とは何だらう..
- 7/27 普遍人間学第四講 レポート t..
- 精神の喜び
- 精神との通ひ路(みち)