2020年06月04日

5/25 アントロポゾフィー・ゼミクラス参加者レポートA  t.m.さん



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3ヶ月ぶりくらいの読書会で、久々に精神の世に触れさせていただきました。光の呼吸を教えていただいた時、昨年の古事記の世界が浮かび上がってきました。
 
 
「私たち一人一人が光を下ろす柱となる。」
 
 
このことこそが、アントロポゾフィを学び続ける意味であり、終わることのない自己教育の意味だと思います。
 
 
私たち日本人ならではの感覚で、光の呼吸のメディテーションを普段から意識していきたいと思いました。
 
 
私は今、パプリカの農作業のバイトをしているのですが、紐でつるしたり、芽や葉をつんだりと様々な作業がありますが、そのまず初めにあるのが「見る」という行為です。 
 
ここでも、シンパシー、ファンタジー、そしてふだんのイマジネーションによって「見る」ということができているのだと考えたりしています。
 
 
意識して眼差しを向けないと「見えない」ことを実感しています。そして、そのように意識して「見る」「愛でる」という行為を行うことで、実際に手を入れる必要がないパプリカ苗も生き生きとしているように思うのです。
 
 
人間が意識を向ける、働きかけることをしないままだと、「死」の方向へ進む。しかし、人が意識を向けて働きかけることで、「死」から「生」へと命が注がれていく。農作業は本当にそのことに身をもって実感させてくれます。
 
 
家の掃除や整頓、庭の手入れも子育ても、みな芸術であるということ。芸術は「死んだものに命を吹き込む」ものであることを改めて実感しました。
 
 
そこで、ひとつ疑問に思ったことは、自然と人間との関係です。人の手が入り込まない自然そのものは、「死」とは私は思えないのです。ありのままの自然は生命力にあふれています。
 
 
その一方、農業など、自然の中に人の手が加わることで、その植物や風景は芸術として命を吹き込まれる。
 
 
この命の違いはなんだろうかと、考えていたのですが、本来の自然は無意識の世界であり、人間の働きが自然に加わることで、意識的になるのかもしれないと思いました。その意識的な世界が芸術を生む。そこに、自然界、植物界、動物界、と人間の違いが見えてくるのかもしれません。そう考えていくと、なぜ、「人間だけがそうなのか」という問いが私の中に生まれてくるのです。とても面白いです。 
 
 
私たちの中にある「天の真名井」から真実や本質を汲み出すこと。人が生きる意味はこの作業の繰り返しのように思います。
 
 
そしてそこにはいつも人間への、世界へのわくわくとする興味からくる「問い」があってこそです。
 
 
それは私たちの「欲する」力が健全に働いていること、そして「欲する」働きが「考える」働きと「こころ」でバランスを取りながら、私の中を行き来していることが大切だと思いました。
 
 
 
―――――
 
 
 
t.m.さんの問ひ。
 
 
人の意識が向けられず、
全く人の手が入つてゐない自然と、
人の意識が向けられ、手入れされてゐる場。
そこに通つてゐる精神のいのちの違ひ。
 
 
それは何でせうか。
 
 
問ひを立てるひとりひとりが、
答へを見いだしていくことができます。
 
 
そして、
地球といふこの場が、
いかにして神々によつて織りなされて来たのか、
そして、
人といふもののが、
どのやうにしてなりたつて来たのか、
それらを学ぶといふこと、
それらを知りゆくといふことは、
それらをなしてこられた存在を、
敬ひ、愛するといふこと。
 
 
ですから、それらを学ぶといふことは、
この地球を創つた方々、
わたしたち人を創つた方々へ、
恩をお返しすることなのです。
 
 
わたしたちのアントロポゾフィーの学びは、
その感情と意欲を基にしてゐます。
 
 
それゆゑ、
我が身にその基を築くための練習も
欠かせないものです。
 
 
知を稼ぐことと、
意欲を培ひ、
情を育むこととが、
織りなし合つて、
わたしたちも少しずつ、
繰りなしていきます。
 
 
 
※写真は、講師・諏訪のノート
 


posted by koji at 08:33 | 大阪 🌁 | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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