2020年05月28日

本を読むときと講義を聴くときの違ひ

 
 
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たつた一枚写真に残されてゐる講義中のシュタイナー


 
何かを学ばうとして、
その何かに関する本を読むことと、
その何かに関して、
誰かから講義を受けることとの間には、
少し違ひがあります。
 
 
本当に学びたいといふ内なる真剣さ。
それは、どちらにも共通して必要です。
 
 
さて、
本を読む時に、望むべくは、
その内容によつて、
こころが変に乱されたり、
煽られたりすることなく、
静かに考へつつ、かつ、熱い想ひをもつて、
理解すること(分かること)へといたることです。
 
 
さうして、その読書が、
こころにばかりか、
からだのすべての液、
すべての力にいたるまで働きかけて、
日々の暮らし方、生き方に影響を与へて行くとき、
その学問そのものには、
理性や知識だけでなく、
精神的ないのちが宿つてゐます。
 
 
そのやうな書を読む人は、
死んでゐる文字を甦らせるやうな
読み方へといざなはれます。
 
 
その書に込められてゐる内容の精神、
考へとしての精神が、
書き手から読み手へと流れ込んで行くのです。
 
 
 

 
一方、講義などを通して、
人の語ることばから何かを学ばうとするとき、
その講義を聴く人は、
語る人から教義を受け取るのではありません。
 
 
語る人その人の精神を受け取るのです。
 
 
語る人の精神が、
語られることの精神とひとつになつてゐるからです。
 
 
つまり、「人」に出会ひにゆくために、
「人の精神」
「精神の人」に
出会ひにゆくために、
講義を聴きに行くのです。
 
 
その人との出会ひのひとときに、
その学問の精神は、そのつど、そのつど、
生まれます。甦ります。むすばれます。
 
 
講義とは、
人と人との間に繰りなされる、
精神の劇でもあります。
 
 
一回かぎりの劇なのです。
 
 
そこにおいては、
和やかで親しみに溢れる雰囲気のなかに、
内なる真剣さがあるほどに、
精神的ないのちが宿ります。
 
 
かうして、
本を読むときとは違ふ精神の受け取り方を、
講義を聴くときに意識してゐますと、
人と人とが、
共に学びつつ生きて行くといふことの
意味深さを感じることができます。



 
 
 


posted by koji at 13:26 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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