
まづ、最初の章の「こころといふ神の社について」から、こころを摑まれるのです。
神の社とは人のこころであり、そこは、キリストのみが入つて行き、彼のみが語り給ふべき場であり、だからこそ、イエスはそこから商人たちを追ひ出した。
商人とは、自分が何かよいことをすれば、神から恵みをいただける、さう思ひつつ生きてゐる人であります。
紛れもなく、わたしのことでありました。
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