2020年04月22日

希む、哲学


  
エッカーマン著『ゲーテとの対話』。
 
 
昨日読んだところに、こんなゲーテのことばが。
 
 
―――――
 
わたしも自分で経験したことがある。
 
腐敗熱(おそらく伝染病の一種)がはやつた時、
どうしても伝染が避けられない状態にあつたが、
わたしはただ断固たる意志だけで、
その病気を追ひ払つてしまつた。
 
さういふ場合に道徳的な意志は、
信じられないほどの強い力を持つてゐるものだ。
 
いはばその意志がからだに浸み通つて、
すべて有害な影響を跳ね返すやうな、
積極的な状態にからだをおくものだ。
 
ところが、恐怖心といふものは、
積極性のない弱い感染しやすい状態で、
どんな敵でも簡単に我々を占領してしまふ。
 
―――――
 
 
ゲーテのことばは、
真実を穿つてゐるやうに感じる。
 
 
「道徳的な意志は、
 信じられないほどの強い力を持つてゐる」
 
 
ここで、わたしが問ふてしまふのは、
意志の強さのことでは実はなく、
次のことなのです。
 
 
あれだけ自然科学に通じてゐたゲーテにして、
この「信じられないほどの」ものに対する、
驚きの念、信頼の念。
 
 
この念は、何に根差してゐるのか。
 
 
これは200年前のことばだが、
いま、わたしたちは、
現在の疫学の「専門家たち」のことばをどう受け取る?
 
 
「専門家」が何を言はうと、
どう受け取り、
どう行動するかは、
ひとりひとり、自由ではないのか?
 
 
少なくとも、考へる人にとつては。
 
 
哲学は、机上の学問に過ぎないのか?
 
 
それとも、
恐怖を越えて、
わたしたちの真の人生と文明を支へる、
永遠のことばのひとつではないのか? 
 
 


posted by koji at 11:14 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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