水の神をお祀りする、
その名も「水神社」が、
一昨日訪れた滋賀県瀬田の建部大社の、
奥の林に、境内社として、
ひつそりと小さな社が佇むやうに鎮まつてゐる。
本殿にてお参りしたあと、
いざなはれるやうに、
その水神社の前に立ち、
小さなお社の前で、
感謝の念ひをこころのうちで唱へました。
さうすると、風が吹いてきて、
明らかにわたしの背後に、
どなたかが優しく佇んでをられるのが直知されます。
吹き寄せてくる春の風に、
地から立ち昇つてくる気配に、
明らかに感じる神秘。
かうした感覚は、
外的に証明することなどできない、
こころのリアリティーであり、
体感と言つてもいいものです。
知性ではない、
わたしといふまるごとをもつての感覚です。
わたしの父も、
よくさういふ話をしてくれてゐました。
かうした感覚を、
いまは多くの人と共有できる時代になつたことを
感じます。
三十年前には、
こんなことを口に出さうものなら、
まさに奇人変人扱ひでした(よね・笑)。
時代も変はつてきたやうに思ひます。
(いまも、もしかしたら、さうかもしれませんが 苦笑)
しかし、関西地方では、
かういふ感覚が比較的大事にされてきたやうに思ひます。
眼に見えないもの、こと、方々・・・。
さういふ存在に対する愛。
それが、ことばに表現できず、
教義も理屈もない、
信仰の顕れです。
さういつた、庶民の感覚が、
(「市民」ではない)
きつと、この国を護つてゐます。
このウィルス騒ぎが始まつてから、
緊急非常事態宣言が出されるまでは、
神社へ参詣される方がとても多く、
また熱心さを増していたやうに見受けられました。
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