平櫛田中『養老』
世の高みから
力に満ちてこころに流れてくる光の中で
現はれよ、こころの謎を解きながら、
世の考への確かさよ。
その光り輝く力を集め、
人の心(臓)の中に愛を呼び覚ますべく。
Im Lichte das aus Weltenhöhen
Der Seele machtvoll fliessen will
Erscheine, lösend Seelenrätsel
Des Weltendenkens Sicherheit
Versammelnd seiner Strahlen Macht
Im Menschenherzen Liebe weckend.
考へる力といふものについて、
人はよく誤解する。
考へるとは、
あれこれ自分勝手に
ものごとの意味を探ることでもなく、
浮かんでくる考へに次から次へと
こころをさまよはせることでもなく、
何かを求めて思ひわづらふことでもなく、
ものごとや人を裁くことへと導くものでもない。
考へるとは、本来、
みづからを措いてものごとに沿ふこと、
思ひわずらふことをきつぱりと止めて、
考へが開けるのをアクティブに待つこと、
そして、ものごととひとつになりゆくことで、
愛を生みだすこと。
今回もまた、
鈴木一博さんの『礎のことば』の読み説きから
多くの示唆を得てゐる。
人が考へるとは、
考へといふ光が降りてくるのを待つこと、
人に考へが開けることだ。
考へが開けるきつかけは、
人の話を聴く、
本を読む、
考へに考へ抜く、
道を歩いてゐて、ふと・・・など、
人によりけり、時と場によりけり、
様々あるだらうが、
どんな場合であつても、
人が頭を安らかに澄ませたときにこそ、
考へは開ける。
たとへ、身体は忙しく、活発に、
動き回つてゐても、
頭のみは、静かさを湛えてゐるほどに、
考へは開ける。
そして、頭での考への開けと共に、
こころに光が当たる。
考へが開けることによつて、
こころにおいて、ものごとが明るむ。
そして、こころそのものも明るむ。
「ああ、さうか、さうだつたのか!」
といふときの、
こころに差し込む光の明るさ、暖かさ。
誰しも、覚えがあるのではないだらうか。
明るめられたこころにおいて、
降りてきたその考へは、その人にとつて、
隈なく見通しがきくものだ。
また、見通しがきく考へは、
他の人にとつても見通しがきき、
その人の考へにもなりうる。
そもそも、考へは誰の考へであつても、
考へは考へだから。
人に降りてくる考へは、
その人の考へになる前に、
そもそも世の考へである。
自然法則といふものも、
自然に秘められてゐる世の考へだ。
人が考へることによつて、
自然がその秘密「世の考へ」を打ち明ける。
その自然とは、ものといふものでもあり、
人といふ人でもある。
目の前にゐる人が、どういふ人なのか、
我が子が、どういふ人になつていくのか、
もしくは、自分自身がどういふ人なのか、
それは、まづもつては、謎だ。
その謎を謎として、
長い時間をかけて、
その人と、もしくはみづからと、
腰を据ゑてつきあいつつ、
その都度その都度、
こころに開けてくる考へを
摑んでいくことによつてのみ、
だんだんと、その人について、
もしくは、わたしといふ人について、
考へが頭に開け、光がこころに明るんでくる。
それはだんだんと明るんでくる
「世の高みからの考へ」でもある。
わたしなりの考へでやりくりしてしまうのではなく、
からだとこころをもつて対象に沿ひ続けることによつて、
「世の考へ」といふ光が頭に降りてくるのを待つのだ。
すぐに光が降りてくる力を持つ人もゐる。
長い時間をかけて、
ゆつくりと光が降りてくるのを待つ人もゐる。
どちらにしても、そのやうに、
考へと共にこころにやつてくる光とは、
世からわたしたちへと
流れるやうに贈られる
贈り物といつてもいいかもしれない。
さらに言へば、それは、
わたしの<わたし>が、
わたしの<わたし>に、
自由に、
本当に考へたいことを、
考へとして、光として、贈る贈り物なのだ。
―――――――
人のこころ!
あなたは安らう頭に生き
頭は、あなたに、とわの基から
世の考へを打ち明ける。
行はれたし、精神の見はるかしを
考への安らかさのうちに。
そこにては神々の目指すことが
世とものとの光を
あなたの<わたし>に
あなたの<わたし>が自由に欲すべく
贈る。
もつて、あなたは真に考へるやうになる
人と精神との基にて。
(『礎のことば』より)
――――――――
その贈り物があるからこそ、
わたしたちは、また、
世の考へが贈られるのを
待ちつつ考へることができるし、
考への光が降りてくればこそ、
わたしたちは、こころの明るさと共に、
その考へを見通し、見はるかすことができ、
その見はるかしからこそ、こころに愛が目覚めうる。
ある人の長所にあるとき、はつと気づいて、
その人をあらためてつくづくと見つめ、
その人のことを見直したり、
好ましく思つたりもする。
長所にはつと気づく、
それこそが、
考への光が降りてきたといふことだらうし、
その人について光をもつて考へられるからこそ、
こころに愛が呼び覚まされるのだらう。
人を愛する時とは、
世の高みから、
力に満ちて流れてくる「世の考へ」が、
こころに開ける時。
考へが開けるとき、
そこには、きつと、愛がある。
愛が生まれないときは、
考へてゐるやうで、実は考へてゐない。
自分勝手に考へや思ひをいぢくりまはしてゐるか、
巡り巡る考へや思ひに翻弄されてゐるときだ。
考へることによつて愛が生まれることと、
愛をもつて考へることとは、
きつと、ひとつの流れとして、
人の内側で循環してゐる。
世の高みから
力に満ちてこころに流れてくる光の中で
現はれよ、こころの謎を解きながら、
世の考への確かさよ。
その光り輝く力を集め、
人の心(臓)の中に愛を呼び覚ますべく。
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