2020年02月27日
山の風
山を登つてゐて、
山の高みに向かつて歩いていくことは、
本を読むことと似てゐると思つた。
自分が自分であるために本を読むやうに、
山を歩く。森を歩く。川辺を歩く。
文章といふもののもつ香気によつて
自分自身を洗ひ流していくやうに、
わたしたちは木の間からやつて來る
光と風によつてみづからを洗ひ浄める。
そしてそもそも持つてゐた、
こころざしといふものを念ひ起こす。
高いところに吹く風は、
人を多かれ少なかれ、
素直にするのではないか。
また、よくよく目を見開いて歩くことの
大切さを思ひ出させる。
感官を開いて、
やつてくる感覚を
ひとつひとつ目一杯味ははうとすると、
山や空や風や光がものものしくものを言ひ出す。
本を読むときも、
目を精一杯見開いて、
一語一語、
一文一文を噛みしめるやうに、読む。
さうすると、本といふ「自然」が、
ものものしく読み手にものを言ひ出すのだ。
さて、人が書くものには、
文体・文の相(すがた)といふものがあつて、
それは、書き手その人の後ろ姿を見せてくれる。
文章とは、人の内的な姿・相である。
文章といふのは、
その功(こう)
広大熾盛(こうだいしじょう)で、
その徳(とく)
深厚悠久(しんこうゆうきゅう)な、
実に人間の仕事の中での
一の大事といつて然るべきものである。
幸田露伴の『普通文章論』の冒頭の一文を思ひだす。
そのやうな内的な姿が
虚空に刻みだされたやうな文章によつて、
「人といふもの」に出会へた喜びを
感じることができる。
そして、山の風、光、雨粒も、
何かを人に伝へようとしてゐるやうに感じる。
われもまた 高みにのぼる そのごとに
風をまとひて 風になりたし
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