冬の深みにおいて、
精神のまことのありやうが暖められ、
世の現はれに、
心(臓)の力を通してありありと力が与へられる。
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、
人の内なるこころの炎」
In winterlichen Tiefen
Erwarmt des Geistes wahres Sein,
Es gibt dem Weltenschine
Durch Herzenskräfte Daseinsmächte;
Der Weltenkälte trotzt erstarkend
Das Seelenfeuer im Menscheninnern.
いま、人と人は、
どれほど分かり合へてゐるだらうか。
人と人との間に、
無関心が、行き違ひが、無理解が、
そして憎しみまでもが立ちはだかつてゐる。
自分自身のこととしても、
そのことを痛切に感じる。
わたしたちは、
そのやうなあり方を「世の冷たさ」として、
密かに、ときにひどく辛く感じてゐる。
その冷たさから自分を守らうとして、
こころを閉ざす。
こころを閉ざした者同士がいくら出会つても、
求めてゐる暖かさは得られさうにない。
しかし、
このあり方が時代の必然であることを
知ることができれば、
何かを自分から変へていくことが
できるのではないだらうか。
15世紀以降、
人のこころのあり方が変はつてきてゐる。
意識のこころの時代だ。
この時代において、
まづ、人のこころは冷たく、
硬い知性に満たされる。
その知性は、
すべてを、人までをも、
物質として、計量できるものとして扱はうとする。
この時代において、
この冷たく硬い知性が、
人のこころに満ちてきたからこそ、
現代の文明がここまで発達してきた。
そして、文明が発達すればするほど、
人は、己れが分からなくなつてくる。
人といふものが分からなくなつてくる。
人といふものは、からだだけでなく、
こころと精神からもなりたつてゐるからだ。
だから、その冷たく硬い知性を
己れのものにすることによつて、
人は、人といふものがわからなくなり、
他者との繋がりを見失つてしまふ。
己れの己れたるところとの繋がりさへも
見失つてしまふにいたる。
文明の発達を支へる冷たい知性が、
冷たい人間観、人間関係を生み出した。
そして、そのやうに繋がりが断たれることによつて、
人は、自分が「ひとりであること」を
痛みと共に感じざるをえない。
以前の時代には、
無意識に繋がつてゐた人と人との関係。
人と自然との関係。
人と世との関係。
それらが断たれていく中で、
人はひとりであることに初めて意識的になり、
改めて、
自分の意志で繋がりを創つていく力を
育んでいく必要に迫られてゐる。
しかし、むしろ、かう言つた方がいいかもしれない。
ひとりになれたからこそ、
そのやうな力を育んでいくことができるのだと。
ひとりになることによつて、初めて、
人と繋がることの大切さに
しつかりと意識的になることができる。
だから、
このやうな人と人との関係が
冷たいものになつてしまふことは、
時代の必然なのだ。
そして、
この時代の必然を見やる、
ひとり立ちしたひとりひとりの人が、
みづから天(精神)と繋がり、
垂直の繋がりをアクティブに創り出すならば・・・。
そのとき、至極精妙な天からの配剤で、
横にゐる人との繋がり、
水平の繋がりが与へられる。
垂直の繋がりが、
ひとりひとりの人によつて育まれるがゆゑに、
水平の繋がりが天から与へられる。
さうして初めて、
人と人とが分かち合ひ、
語り合ひ、愛し合ふことができる。
地上的な知性で、
地上的なこころで、
地上的なことばで、
人と人とが分かり合へるのではない。
そのやうな意識のこころの時代が始まつて、
すでに500〜600年経つてゐる。
わたしたち人は、そのやうに、
いつたん他者との関係を断たれることによつて、
痛みと共に、冷たく、硬い知性と共に、
ひとりで立つことを習つてきた。
そして、そろそろ、ひとりで立つところから、
意識のこころの本来の力、
「熱に満ちた、暖かい知性」、
「頭ではなく、心臓において考へる力」、
「ひとり立ちして愛する力」を
育んでいく時代に入つてきてゐる。
他者への無関心、無理解、憎しみは、実は、
人が、からだを持つことから必然的に生じてきてゐる。
硬いからだを持つところから、
人は冷たく硬い知性を持つことができるやうになり、
からだといふ潜在意識が働くところに居座つてゐる
他者への無理解、憎しみが、
こころに持ち込まれるのだ。
だから、これからの時代のテーマは、
そのやうな、からだから来るものを凌いで、
こころにおいて、
暖かさ、熱、人といふものの理解、愛を、
意識的に育んでいくことだ。
「世の冷たさに力強く立ち向ふのは、
人の内なるこころの炎」だ。
その「内なるこころの炎」は、
天に向かつて燃ゑ上がる。
精神に向かふ意志の炎となる。
日常生活を送るうへで、
日々の忙しさにかまけつつも、
なほかつ求めざるを得ないこころの糧。
それは、精神である。
地上に生きる人にとつて、
なくてはならないこころの糧としての精神。
その精神の具象的なもののうち、
代表的なもののひとつは、キリストであらう。
キリストのこと、
クリスマスにをさな子としてこの世に生まれたこと、
春を迎へようとする頃
ゴルゴタの丘の上で起こつたこと、
そのことを深みで感じつつ、
深みで知りゆくことによつて、
ますます意識的にこころを精神に向かつて
燃ゑ上がらせることができる。
そして、
人と人との間に吹きすさんでゐる無理解と憎しみといふ
「世の冷たさ」に立ち向かふことができる。
ひとりで立ち、ひとりで向かひ合ふことができる。
キリストのことを考へないまま信じるのではなく、
キリストのことを考へて、想ひ、そして知りゆくこと。
意識のこころの時代において、
人は、そのやうなキリスト理解をもつて、
みづからのこころに炎を灯すことができる。
なぜなら、キリストの別の名は、
「わたしは、ある」だからだ。
「わたしは、ある」。
さう、こころに銘じるとき、
わたしたちは、こころに炎を感じないだらうか。
そして、キリスト教徒であるなしにかかはらず、
キリストと繋がる。
冬の深みにおいて、
精神のまことのありやうが暖められ、
世の現はれに、
心(臓)の力を通してありありと力が与へられる。
「世の冷たさに力強く立ち向かふのは、
人の内なるこころの炎」
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