クラシック音楽を
少しづつ、少しづつ、聴き出して、
数年になります。
まだ、何が何やらよく分からず、
ただ、買ひ求めた数少ないアルバムを、
繰り返し、繰り返し、聴き続けてゐます。
何度も聴いて来た、
フルトヴェングラー指揮、
ベートーヴェン第九交響曲(1951年バイロイト)を、
家人が誰も家にゐないことをいいことに、
今日は大音量で聴きました。
時間の中を疾走するが如く、
フレーズからフレーズへ
ダイナミックに音が移りゆき、
しかも一音一音へ意識が細やかに配られ、
時には、まるで天上から
突然神々が降りて来られたかのやうに感じたり、
ベートーヴェンの精神が
聴いてゐるわたしの身を揺さぶり、舞はせ、
肉体があることを忘れさせるやうな時間。
第四楽章の最後の加速していく演奏に、
ほとんど我を忘れてゐる自分がゐました。
ひとつひとつの音と声によつて、
完璧なまでに精緻に組み立てられた構造物なのに、
そのひとつひとつの響きが、
肚の底から鳴らされ切つてゐる。
すべての演奏が終はつた瞬間、
嗚咽に似た感情が、
身の内から滾々と湧き上がつて来たことに、
自分自身、驚いてしまひました。
このやうに、クラシック音楽を聴くことは、
酔狂者の一種の暇つぶしなのだらうか、
さう、みづからに問ふてみました。
さうではない、と思ひました。
喜びも悲しみもすべての感情を生き切る。
それを歌ひ上げる。
人は、そのやうに生き切らなければならない。
この演奏は、演奏そのもので、
そのことを示してくれてゐるやうに
思はれてなりません。
人生を生き切つて、
人はくたくたになり、
へたばつてしまふかもしれない。
それと同じやうに、
この演奏を聴いたあと、
やはり、くたくたになります。
しかし、
音の中に真正面から入り込んでいくことによつて、
普段の生ぬるい自分が死んでしまふ。
そんな事態に踏み込める音楽、芸術が、
いまだ存在してゐることが、
ありがたいことです。
なにごとも外に居ては分からないものですね。
内へ、内へと、入り込まねば、
と改めて念はされました。
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