2020年01月27日

再びひとつになりゆく


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神と人とが分かれてしまつた痛みを、
詩人たち、
とりわけ、日本の詩人たちは、
昔から、
個人的な悲しみを超えた、
国の悲しみと捉へました。
 
 
さうして、
再びその分離が収まりゆくことを
悲願としたのです。
 
 
神と人との分離は、まづ、
人のこころの乱れとして潜在し、
それは、ことばの乱れ、国語の乱れとして、
明らかに現はれてくるのでした。
 
 
松尾芭蕉の語録『三冊子』に、
「俳諧の益は俗語を正すなり」といふ、
ことばがあります。
 
 
「正す」といふと、どこか、
「上から目線」な趣を与へてしまひますが、
しかし、芭蕉は、明らかに、
国の歴史を貫く高い精神を
しつかりと覚え、
みづからもそれを把持しよう、
後世に伝へようとしてをりました。
 
 
その高い精神からこそ、
俳諧師は、
正しい国語を普及しようといふ考へをもつて、
全国を旅しました。
 
 
詩人とは、
とても足の強い人たちだつたのですね。
 
 
ことばと、足の運び。
 
 
そこには深い関係があります。
 
 
そのやうな足の運びをもつて、
古典の中に流れてゐる考へ方や感じ方を、
世俗の人に分かるやうに説いて行きました。
 
 
真の詩人とは、
国の歴史を背負ひつつ、
国語運動の先端たる担ひ手です。
 
 
そして、全国の様々なところで、
深い志を共にすることのできる人々と
輪を囲む。
 
 
その場では、
ほんのひとこと、ことばが口に出ただけで、
その心意気と風雅が分かち合はれる。
 
 
泣いてしまふ。
 
 
そのやうに思ひと情が
深くから動くやうな、
人を創ること。
 
 
一語一句で千古の情が湧き上がるやうな、
切迫した感覚を磨くこと。
 
 
和歌、連歌、俳諧、
それらのことばの芸術に勤しむことで、
詩人たちは、
さういふ切迫した「ことばの感官」を
人々と共に育んできました。
 
 
江戸時代、二百何十年にわたる、
そのやうな国民的な国語教育が、
各地で詩人たちによつてなされてゐたからこそ、
地方における明治維新への強烈な志もまた、
準備されたのでせう。
 
 
不肖わたくしも、
言語造形といふ国語芸術をもつて、
「俗語を正す」運動、
「ことばの感官を育む」運動、
「神と人とが再びひとつになりゆく」運動に、
連なりたいと希つてゐるのです。
 
 
「神と人とが再びひとつになりゆく」。
 
 
もはや、宗教の場においてではなく、
まごころとまごころが通ひ合ひ、
研鑽と見識が織りなし合ふ、
芸術の場においてこそ、
神と人との出会ひが生まれる。
さう感じてゐます。
 


posted by koji at 13:43 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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