2019年12月08日

ものが見え過ぎる人

 

先日、ある友人と話しをしてゐて、
様々なことを思ひました。
 
 
長いお付き合ひの中で、
感じてきたことですが、
その人は言はば、
「ものが見える」人でした。
 
 
「ものが見え過ぎる」人、
と言つてもいいかもしれません。
 
 
さて、
今日12月8日は、
大東亜戦争の火蓋が切つて落とされた日ですが、
その戦時の真っ只中に、
文芸批評家の小林秀雄が書いた古典論のひとつ、
「徒然草」といふ短い一篇があります。
 
 
その中で、こんなことが記されてゐます。
 
 
――――――
 
 
(吉田兼好の)あの正確な鋭利な文体は
稀有なものだ。
 
 
一見さうは見えないのは、
彼が名工だからである。
 
 
『よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、といふ。
 妙観が刀は、いたく立たず』、
 
 
彼は利き過ぎる腕と鈍い刀との必要とを
痛感してゐる自分の事を言つてゐるのである。
 
 
物が見え過ぎる眼を如何に御したらいいか、
これが『徒然草』の文体の精髄である。
 
 
――――――
 
 
「ものが見え過ぎる」人の苦悩は、
ものの見えてゐないわたしなどには、
到底分かりやうのないものだと思ひます。
 
 
その友人は、だからこそ、
外側の世界に向かつて己れを表現するときには、
きつと「少し鈍き刀を使」つてゐることでせう。
 
 
おのづから手にしてしまつてゐる鋭過ぎる刀では、 
外の世をあまりにも鮮やかに切つてしまふからです。
 
 
わたしなどの凡庸な者にできることは、
そのやうな友人が語らざるところをこそ、
我が乏しい力でも、なんとか、
汲み取り、聴き取ることです。
 
 
いや、そのことをどれほど、
し損ねてきたことか、
忸怩たる念ひがあります。


posted by koji at 22:34 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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