
一冊の本を書棚から引き抜き、
頁を開いて、
一行一行読んで行く時、
当り前のことだが、
その時、他の本を読むことはできない。
その時には、
わたしはまさにこの一冊を選び取つてゐる。
この世に幾千万とある他の本を読むことはできない。
他のすべての本を読むことを断念しなければならない。
そこで、もし、いま、
この一冊といふ本を選び取つて、
その一頁一頁に向かひ合ふならば、
わたしはみづからがみづからに課す責任において、
その一頁一頁を全力で読みたい。
ややもすれば、
今読んではゐない本のことを、
ちらちら思ひながら、気にしながら、
こころここにあらずの状態で
本を読んでしまふ。
しかし、さうではなく、
今向かひ合つてゐるこの一冊に、
己れのまるごとをもつてぶつかつて行きたい。
なぜならば、
己れの自由の精神のもとにおいて、
このひとときをみづから選び取つたのなら、
そこに己れの全精力を注ぎ込まねば、
己れの精神が泣くではないか。
これは本を読む時だけでなく、
わたしたちの一挙手一投足に
かかはつて来ることだと思ふ。
わたしたちは己れの行為を
自由の精神のもとでみづから選んでゐる。
それならば、
その行為そのものを
〈わたし〉の行ひとして、
全精力をもつて行ひたい。
その時に、人は、
この人生を支配しようと襲ひかかつてくる、
相対性といふ甘い罠から脱し得ることができる。
〈わたし〉は、ここにゐる。
この〈わたし〉は、
この世でたつたひとりの人であり、
わたしがそのことを選び取つたのだ。
精神とこころとからだが重ね合はさる
絶対の境に立つことができる。