今日も、
保育園の0〜2歳児、3歳児、4歳児、5歳児、
それぞれのクラスで昔話をさせてもらひました。
そして、
その保育園の先生方と
言語造形のワークショップをしたとき、
おひとりおひとりの先生に、
こんなことを訊きました。
皆さんは、
御自身の声が好きですか。
すると、すべての先生が、
嫌ひだとお答えになりました!
そこで、こんなお話をさせてもらひました。
先生といふ職業は、
その存在まるごとで、
子どもたちに向き合ふお仕事。
だけれども、まづもつて、
子どもたちに働きかけるのは、
先生の声とことばです。
その先生自身が、
御自身の声を好きになれないとしたら、
その好きになれない声で、
子どもたちに話しかけることになりますね。
声とことばが、
人にとつての道具だとするなら、
その人自身が愛してゐない道具で
決していい仕事はできません。
声とことばは道具だと言ひましたが、
道具にしては、あまりにも、
我が身と我がこころに密着している道具です。
だからこそ、まづもつて、
我が親しい道具である、
自分自身の声を好きになることから始めませう。
そんな話をさせてもらひました。
その後、保育園からの帰りの電車の中で、
こんなことを考へました。
なぜ、自分自身の声が好きになれないのだらう。
たとへば、
録音された自分自身の声を聴く時の違和感。
自分は、こんな声で話してゐるのか!
そのショックは、
どこからやつて来るのだらう。
もちろん、
録音された音声は、
生の音声とは質が全く違ふ。
しかし、本質的なこととして、
そのショックは、
普段、自分自身の声に耳を傾けることが
ほとんどないことから来てゐる。
思ひ切つたことを言つてみよう。
そもそも、ことばとは、
意を伝へるものではない。
ことばで、
自分自身の言ひたいことが、
他人に伝はると、
本当に思ふか。
どこまで、ことばを尽くしても、
人と人との間には、
常に理解の差異が存在しないだらうか。
むしろ、ことばとは、
自分自身が聴くために、
発せられる。
自分が発する声とことばに、
どこまで、
自分自身が耳を澄ますことができるか。
その瞬間瞬間に、
わたしたちは、
ことばといふものの本当の価値を感じる。
自分の声を好きになるには、
自分自身の声を、
よおく聴くことだ。
自分自身の声とことばに、
よおく意を注いであげることだ。
そもそも、
どの人の声も、美しいのだ。
その美しさは、
人から、
自分自身から、
意を注がれて、
初めて顕わになる。