2019年11月01日

「利用」と「入門」の違ひ



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この言語造形といふ芸術に携わはり始めて、
二十六年ほどになります。
 
 
東京で、師匠のもとに入門して七年を過ごし、
地元の大阪に帰つてきて、
なんとかこの芸術を仕事にし始めました。
 
 
ですので、いはゆる「言語造形をする人」として、
ひとさまの前でひとり仕事を始めて、
約二十年が経つたことになります。
 
 
お陰様で、この仕事ひとつで、家族四人が、
幸せに暮らしていくことができてゐることに、
本当にありがたい念ひがします。
 
 
この芸術を自分の「仕事」にすることができたのは、
ひとへに、
「入門」したからだと確信してゐます。
 
 
「入門」とは、
文字通り、「門」に入ることです。
 
 
それは、身を預けることです。
 
 
わたしの場合は、月曜日から金曜日まで、
毎日、師匠のもとに通ひました。
 
 
大切なことを学ぶことができたのは、
師匠といふ「人」がこの世に存在してゐたからでした。
 
 
言語造形といふ芸術に身を投じてゐる、
まさにその人あつてのことでした。
 
 
そこで毎日繰り広げられてゐたのは、
まさに、人と人とのわたりあひに他なりませんでした。
 
 
七年間、毎日、です。
 
 
そのやうな「毎日」があつたからこそ、
師匠の許から離れた後、
その「毎日」が「仕事」として結晶化し、
おのづから世に発展・展開していきました。
 
 
それは、能力のあるなしが問題なのではなく、
積み重ねてきた「時間」と「労力」と「精神」の問題です。
 
 
わたしは、とりわけ、「時間」といふものの積み重ねは、
決して馬鹿にならないものだといふことを、
この身で実感してゐます。
 
 
既定の自分のできる範囲でしか動こうとせず、
何かを、誰かを、「利用」しつつ、
それを「仕事」にすることは、
決してできません。

 
その「入門すること」と「利用すること」の
違ひが、現代人の多くに分からなくなつてゐるやうです。
 
 
わたし自身、その違ひに対する認識が、
これまで甘かつたことを、
今、痛感してゐます。
 
 
よつて、何人かの人が、
「入門」してゐないのにも関はらず、
それを「仕事」にしようとしました。 
 
 
いくらでも「利用」してもいいと思ふのです。
 
 
それは、現代人にとつて、ごくごく、
当たり前のことです。
 
 
しかし、
その「利用」と「入門」とは、
違ふのだといふことは明確にするべきです。
 
 
「入門」しなければ、
仕事にはならないこと。
 
 
より精確に言ふと、
「入門」してゐなければ、
片手間の仕事にはなるかもしれませんが、
決して、本物の仕事として展開していかないこと。
 
 
このことは、平成の三十年間には、
誰も教へてくれなかつたことのひとつです。
 
 
だから、現代人は、
この「利用」と「入門」の違ひを、
「知らない」のです。
 
 
「入門」できる仕組みを創ることでしか、
このことは、現代人には分かり得ないことでせう。

 
これは、
派閥を造ることとか、
王国を築き上げるといふやうなこととは、
精神を異にすると確信します。
 
 
言語造形といふ芸術を、
まこと、この日本の地に根付かせ、
芽を出させ、
花開かせ、
稔らせること、
そのために他なりません。
 
 
わたしの令和年間の仕事は、
そのための仕組みを創り始めることです。
 
 
師匠がして下さつたやうに。
 
 


『言語造形と演劇芸術のための学校』
https://kotobanoie.net/school/
 



posted by koji at 12:00 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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