
平櫛田中作「養老」
わたしたちは、各々、
尊敬に値する人をこころに持つてゐるだらうか。
もし、持つてゐないといふのなら、
それは、しんどいことだ。
生きて行く上で、
それはとてもしんどいことである。
人は、
敬ひ、尊ぶ存在を、
こころにしつかりと持つてゐることで、
人になるのだから。
自分自身になるのだから。
人が人であることの感覚。
それは、他者を敬ひ、尊ぶことから、
だんだんと育まれていく。
幼な子は、皆、
この念ひを無意識に持つて生まれてくるのだが、
小学校に入つて数年経つうちに、
その念ひを失くしてしまふことがある。
大人になつて、その念ひを失つてしまつてゐる人は、
自分自身の意志でその念ひを持つことができるやう、
自分自身を導くことで、こころが健やかさに向かつていく。
日本に於いては、歴史の中で随分と長い間、
人が人であることの感覚が育まれてゐた 。
それは、ひとりひとりの民が、各々、
尊敬する存在を持つことで育まれてゐた感覚であり、延びてゆく道であつた。
生きていく上でのお手本を見いだすことで育つてゆく樹木であつた。
樹木が育つていくためには、
上から陽の光と雨水が降り注がれなければならないやうに、
とりわけ、子どもにとつて、そのやうな尊敬に値する存在が必要なのだ。
子どもは、
尊敬する存在が傍にゐてくれることで、
健やかに成長していく。
実は、大人だつて、さうである。
あなたには、尊敬する人がゐるだらうか・・・。
大人になつてゐる以上、
おのづと尊敬できる存在が目の前に現れてくることはない。
尊敬する存在を自分自身の意志で持つことだ。
さうすることで、人は、
己れのこころが健やかに浄められるのを感じることができる。
人は、
己れよりも、高い存在がゐる、といふことを認めることで、
初めて謙虚になることができる。
古来、日本の民は皆、強制されてではなく、
どこまでもこころから尊敬する存在、
大君といふ存在を己れのうちにいただいてゐた。
昔の日本人は、さういふ道を歩いてゐたのだ。
このことは、令和元年のいま、これから、
国民的な趨勢として、
意識的に学び直されて行くだらう。
なぜなら、それは、
これまでわたしたちが受けて来た教育では、
意図的に全く教へてもらへなかつたことだからだ。
批判的に、客観的に、
ものごとや、人や、すべてのものを見るやうに、
つまり、科学的に見ることを、
ひたすらに教へられてきたのだ。
これからは、ひたすらに意識的に古(いにしへ)を学ぶ、
そんな古学が甦つて来るだらう。
【断想の最新記事】