2019年10月02日

こころの安らかさ、静けさ、まぎれなく考へる、そしてリアリティー



DSC_0119.JPG 
奈良の山の辺の道に咲くコスモス
 


「その人のこころの内側に、静けさがなければ、平和な外側の世界は生まれない」
 
こころの安らかさ、静けさ。
 
ここにこそ、<わたし>がある。
 
ここにこそ、個人があり、
 
さらには、個人といふパーソナリティーをも超える、
 
<人>(インディヴィジュアリティー)がある。
 
意識のこころの培ひは、人と議論をしたり、批判的に考へたりすることによつてではなく(それは15世紀以前の分別のこころの培ひにおいてなされてきたことでした)、意識的にみづからのこころを静かに、安らかにする訓練の中から生まれてくる精神の声に耳を澄ますことによつてこそ、促される。
 
それが、「まぎれなく考へる」といふこと。(シュタイナーはそのことを「reine Denken」と言つてゐますが、「純粋思考」といふ訳語はわたしには分かりにくく、「まぎれなく考へる」といふ言ひ方をさせてもらつてゐます)
 
わたしたちは、とかく、ある観点、ある立場のもとに立つて考へることによつて、さうではない観点、さうではない立場を批判することに傾いてしまふ。
 
「批判的にものごとを考へる」といふあり方は、どうしてもそのやうなあり方にならざるをえないのではないでせうか。
 
一方、「まぎれなく考へる」といふあり方は、そのやうに、批判的にものごとを捉へることを言ふのではなくて、ものごとをまづは、優劣なしに、高低なしに、正邪なしに、純粋と不純を分けることなしに、ありのままに、迎へ、親しく付き合つてみることを言ひます。
 
さうでこそ、まさしく、理性的なあり方に立つことができるのではないでせうか。
 
そこからこそ、本質的なところが、本質的でないところからおのづと別れる道が開けてくるのではないでせうか。
 
 
 

しかし、だからこそ、この「意識のこころの培ひ」「まぎれなく考へる」は、誰にでも啓かれてゐる自己教育の指針でありつつも、決して誰にでもいますぐに当て嵌めることのできない「高い理想」なのです。
 
現代、隆盛を誇つてゐる「個人主義」は、実のところ、たいがいが、エゴイズムです。
 
そのエゴイズムは、おいそれとは、簡単に、その理想、つまり「インディヴィジュアリティー」へと「進化」などいたしません。
 
アントロポゾフィー界隈では、「意識魂の時代」といふやうなことばを、あまりにも、安易に用い過ぎてゐます。
 
「自分はすでに意志魂の時代に生きてゐる」などと、あまりにも安易に思ひ込んでゐます。
 
その「理想」は、わたしたちのこれまでの習ひのありやうには、いまだ、馴染まない、ある種の跳躍をわたしたちに要求します。
 
牛の歩みのごとき遅さでしか、エゴイズムに満ちたパーソナリティーはインディヴィジュアリティーへとは成り変はらないのだ、といふリアリティーをもつことは、とても大切なことだと強く自戒します。
 
だからこそ、意識のこころの培ひです。
 
その培ひの備へが「こころの安らかさ、静けさ」ですし、それは、己れを統御して行く長い道のりの始まりです。
 
そして、それは、だんだんと、外なる世が安らかになりゆくことへの礎に、きつと、なります。
 
 
 
わたしたちは、いまの精一杯の己れの現状からの「批判的に考へる」といふあり方と、高い理想としての「まぎれなく考へる」との間に、妥協点、中和点を見いださなければなりません。
 
そこにこそ、きれいごとではない、リアリティーが息づきます。
 
 
 



posted by koji at 11:35 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。