2019年09月19日

鏡を磨いて待つ 〜考への育み〜

 
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わたし自身、講座をしながら、想ひ、考へ、そしてまた想ひ起こす、といふ一連の作業をしつつ、ことばを選んで、他者に語りかけていきます。
 
語るべきことがらを想ひ起こすのは、天に拡がつてゐる「考への空間」からきらきらと金色の何かが降り注いでくるのを我がこころの鏡に照らし出すやうな感覚なのです。
 
しかし、時には、想ひ起こさう、想ひ起こさうと焦つてしまひ、天から降つてくる何かを待てずに、こころの腕を振り回して空回りしてしまふやうなことも、ままあります。
 
そんな時は、たいてい、ことばが宙に浮いてしまふ。
 
焦らずに、待つこと。
 
それを会得・体得することが、ずつと、わたしのテーマでもあります。
 
 
 
日本神話から、こんなイメージが、湧き上がつてきます。
 
我がこころの鏡に照らし出される光、それは、つまるところ、高天原にをわします天照大御神といふ精神存在からの光であります。
 
このこころの鏡は、まづもつては、頭の位置、脳にあつて、そこにわたしたちの抱く考への像が映りますが、その考への像に親しめば親しむほど、その鏡は胸の位置、心臓にまで降りて来ます。
 
わたしたちはひとりひとり、そのやうな光を照らし返し、像を映し出す鏡を、この身に授かつてゐます。
 
「この鏡は、もはら吾(あ)が御霊(みたま)として、吾が御前(みまへ)をいつくがごとく、いつきまつり給へ」と天照大御神がホノニ二ギノミコトに授けられたやうに、です。
 
 
 
 
わたしたちは、己れのその鏡を磨いて待つほどに、鏡面は曇りなく像を映し出し、しつかりと想ひ起こすべきことを想ひ起こすことができる。
 
その「待つ」といふこと、それは、できうる限り準備を重ねるだけでなく、落とされる小石が拡げるどんな波紋も見ることができる湖面のやうにこころを磨き、平明に静かに整えておくこと。
 
そのためには、深い息遣ひ、呼吸のありやうが、鍵を握つてゐます。
 
想ひ起こすこと、考へること、その考へを的確に精確にことばに鋳直すこと、それは、高天原からの光を我が鏡に出来る限り曇りなく映し出すことなのです。
 
 


posted by koji at 21:52 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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