
なぜだかとても疲れた時などには、いろんな疲労回復法があるのだらうけれども、自分はよくシュタイナーの『自由を考える』を読む。
そして、そこに書かれてある文に沿つて、考へることによつて、自分自身の偏つてゐるこころを立て直すことができ、救はれることがよくある。
第5章の「世を知る」を読むと、そこにこんなことが書いてある。
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いま、わたしが、蕾をつけた薔薇の枝をもつてゐるとすれば、きつと、その枝を水に活けるだらう。
なぜか。
薔薇の蕾は、薔薇の花となるからだ。
薔薇が蕾の状態であることも、薔薇であることのひとつのプロセスだし、花開いてゐる状態も、薔薇であることのひとつのプロセスだ。
しかし、プロセスの中のそのときそのときの面持ちを見るだけでは、これこそが薔薇だ、といふことは、やはり、できないし、水に活けて花開かせるといふ想ひにも至り得ない。
考へることで、プロセスといふものを捉へるからこそ、薔薇の枝を水に活ける。
その薔薇が、「なる」といふこと、「育つ」といふこと、「成長する」といふことを、考へるからこそ、わたしは薔薇の蕾がついた枝を水に活け、その薔薇が薔薇としての美しさを十全に出し切るのを待つ。
見てゐるだけで、考へなければ、きつと、水に活けはしないだらうし、薔薇が薔薇であることも分からないままだらう。
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わたしが、「薔薇は育つ」といふプロセスを考へずに、水に活けてもてなさなければ、薔薇の蕾は枯れてしまい、その美しさを見せてくれはしない。
きつと、人であるこのわたしも、薔薇と同じだらう。
薔薇が育つやうに、わたしといふ人も必ず育つ。
そこで、このわたしといふ人に与へるべき水とは、何だらう。
この考へに立ち戻るのだ。
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