この連載の第一回目に、大東亜戦争の敗戦以前の、日本の家庭観、父親像について考へてみたいと書きました。
それは、さういふ家庭観、父親像に、わたし自身が人間といふ存在の美しさを感じるからなのです。
わたし自身、昭和三十九年(1964年)と云ふ、高度経済成長期の真つ只中に生まれたのにも関はらず、自分の父親からそこはかとなくそのやうな像を感じてゐたからかもしれません。
文芸評論家の保田與重郎は、昭和十九年に書いた『日本の家庭』といふ文章の中で、国を支えてきた古き日本の父の姿を書き記してゐます。
昭和十九年に保田がさういふ姿を書き留めようとしたといふことは、戦後にいきなり古き日本の父性が失はれたのではなく、戦中、戦前においてもすでにその喪失が感じられていたといふことでせうし、さらに遡つて明治維新から始まつた文明開化の風潮の中で、それらの古い日本の変容、解体が不可避の事として始まつてゐたのです。
仁義礼智忠信孝悌といつた徳目や神仏への信仰を、道徳といふ形で荷つてゐたのは、昔の日本の父親でした。
父は先祖祭りを儀式として荷ひ、母は祭りの団居(まどゐ)に従事してゐました。
昔の日本の父は、現世的な権力や威力によつて、子弟たちを教育しようとすることは決してなく、常に神棚と仏壇の前からものを言ひました。祖先の霊から始まる、幾世もの先つ祖(おや)の、更におほもとである神々を厳重に信奉しました。
汝も日本人ではないのか。
祖先の霊をどう思つてゐるのか。
そのやうな数少ないことばと、位牌をもつて、家の道徳、国の道徳を、守つてゐました。それは決して、理屈や教義によつて説かれたのではありませんでした。
日本の父のそのやうな無口が、日本の支柱でした。
そして長男は、父からの神聖な根拠に立つ威厳を具へるやうな、家を精神的に継いでいく存在として教育されてゐました。
次男、三男は、きつと家庭によりますが、軍人として、官吏として、商人として、願はくば国の恩、世の中の恩に仕へ奉ろうなどと考へられてをりました。
しかし、明治の文明開化の代から始まるわたしたちの歴史は、そのやうな父の意志、意力を、だんだんと無口な悲しさへと追ひこんで行つたことを教へてくれます。
異国風の新しい教育学や思想に対面せざるを得なくなり、以前よりいつさう無口になつて己れの信ずる祖先の霊と共に悲しんでをりました。
この辺りのことは、島崎藤村の『夜明け前』を読むと、静かにしみじみと、その悲しみが伝はつてきます。
日本の家庭における教育環境を司り、教養階級そのものであつた父が、父たる伝統を失つた、その時から、この連載の第二回で述べた炉辺の母の物語も失はれていきました。
そして、やがて、日本の家庭が決定的に崩されはじめたのは、大東亜戦争の敗戦によつて敷かれたGHQによる占領政策以来のことです。
新しい教育学、保育学、教養論が、ますます人のこころを染めていきました。
そして、わたしたちは日本人であることを何か劣つた、恥づかしいこととして、云々するやうになりました。自分自身への信頼をだんだんと失つていきました。
しかし、決して理論闘争を試みず、神仏や先祖と繋がれて生きてゐる己れのありかたを深く信じてゐた日本の父の姿は、完全に失はれたのでせうか。
家の儀式祭祀を司り、そこからおのづと家の道徳、躾、たしなみを、ことばを越えたところで子孫に伝へていく父の道は、果たして消え去つてしまつたのでせうか。
わたし自身、そのやうな昔の父の姿、風貌を新しく見いだし、自分自身の中で新しく育て、新しく次世代へ守り伝へていかうと考へてゐます。
そのために何ができるだらうか。
そのことを考へる毎日なのです。
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