2019年06月26日

仕事と信仰心


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琵琶湖東岸の能登川付近の水田 

わたしたちはめいめい仕事を持つてゐる。
 
その仕事の中にこそ、信仰心が育つ肥沃な土壌がある。
 
仕事といふものが、その人その人によつてからだとこころを総動員させながら数限りない反復を通してなされる時、その反復は極めて微妙で繊細ながらも確かな手応へといふものを人に授ける。
 
それは、仕事といふ「もの」のなかにその人が入りこんで、共に呼吸をするやうな工合とも言へる。
 
その時、わたしたちは、自身のこころが静まり、清まり、深まつてゐることにも気づく。
 
そして、そのやうなこころのありやうによつて喜びと感謝と共に初めて見えてくるもの・ヴィジョンがあることをも知つてゐる。
 
そのヴィジョン・見えてくるものを、わたしたち日本人は、神として捉へてきた。
 
わたしたち日本の無数の無名の水田耕作者は、神からの「ことよさし」である米作りを通して、植物的生命の中に入り込み、神への感謝と喜びと畏れと共に生活してきた、その信仰を身をもつて感じ取つてゐた。
 
日本人の信仰は、経典や説教や伝道で育まれて来たのではない。
 
米作りといふ生産生活そのものが信仰を育んできたのだし、米作りによる祭の生活そのものが信仰生活だつた。
 
それは、「神ながらの道」「ものへゆく道」であつた。
 
「言挙げ」を拒む静かな日々の労働、無言の反復こそが、人を神に導く。
 
いま、わたしたちは、各々、各自の仕事を「ことよさし」された仕事として捉へ直すことができるだらうか。
 
そして、外側の何かに反発するのでも同調するのでもなく、自分の生業に静かに立ち戻り、感謝をもつてそれに取り組むことができるだらうか。
 
それ以外の言動や行動は、結局のところ、いつたい何を引き起こすことになるのだらうか。
 
あまりにもかまびすしい「言挙げ」に満たされてゐる現在、いかにしてあへて目を閉じ、耳を塞ぎ、理屈を言はずに、手足を動かしていくか。
 
その胆力が問はれてゐる。
 
 



posted by koji at 12:31 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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