天王寺の茶臼山の上空
我が意欲のこだわりを忘れ、
夏を知らせる世の熱が、満ちる、
精神とこころのものとしてのわたしに。
光の中でわたしを失くすやうにと、
精神において観ることがわたしに求める。
そして強く、予感がわたしに知らせる、
「あなたを失ひなさい、あなたを見いだすために」
Vergessend meine Willenseigenheit,
Erfüllet Weltenwärme sommerkündend
Mir Geist und Seelenwesen;
Im Licht mich zu verlieren
Gebietet mir das Geistesschauen,
Und kraftvoll kündet Ahnung mir:
Verliere dich, um dich zu finden.
「わたしは、これをしたい、あれをやりたい、これをしなければ、あれをしなければ・・・」
そのやうな意欲といふものも、内なる「熱」と言つていいのだけれども、その意欲の中にある「こだわり」を忘れることができるだらうか。「・・・しなければ」といふやうな「恐れ」を忘れることができるだらうか。
朝、陽の光が輝き出すと、その熱が、来たる夏を知らせてくれてゐるやうに感じる。
そして、「熱いなあ」と感じるだけにせずに、ずつと、その熱に問ひかけるやうに、してゐると、その陽の光から発せられてゐる熱は、自分が抱いてゐる意欲の熱よりも、はるかに、はるかに、巨大で、太陽の意欲は、わたしの意欲よりも、はるかに、はるかに、強く、深く、遠くを見通してゐるかのやうな豊かさであると感じる。
そのやうな意欲の大いなる力は、太陽を通して、どこから来るのだらう。
シュタイナーは、『世と人のなりかはり』(全集175巻)の中で、「父なるもの」からだと話してゐる。
その「父なるもの」「そもそも世を創りし方、そしていまも創り続けてゐる方」と人との出会ひは、ひとりひとりの生涯の内に一度はきつとある。
人生の中で、己れといふもののこだはりを脱ぎ捨てられたことで、夏の太陽のやうな巨大な輝きと熱、感動と驚きと畏敬の念いに満たされる時、その出会ひは生じる。
だから、子どもの頃、丁度、これから始まる夏にかけて、大いなる天空を仰ぎ、そこに拡がる星ぼしに想ひを重ね、自分の感情と意欲を大いなる叡智に沿はせていくことは、人生にきつと一度は生じる「父なるもの」との出会ひに向けた良き備へになる。
人生の中で、このことばが、予感として、響くときが、きつとある。
光の中で、あなたを失ひなさい、あなたを見いだすために
我が意欲のこだわりを忘れ、
夏を知らせる世の熱が、満ちる、
精神とこころのものとしてのわたしに。
光の中でわたしを失くすやうにと、
精神において観ることがわたしに求める。
そして強く、予感がわたしに知らせる、
「あなたを失ひなさい、あなたを見いだすために」
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