
萩原碌山『女』
「人の肉体の中で一番裸の部分は、肉声である」と書いたのは、小林秀雄だつた。
生の声。
それは、その人の裸体を示す。
しかし、通常、ことばといふ衣装が、その裸体を覆つてしまつてゐる。
ことばで、なんとか、かんとか、裸体の自分を隠さうとする。
いや、かう言つた方がいいだらうか。
いくらことばで誤魔化さうとも、生の声がその人の裸体を透けて見させる。
しかし、ことばでは取り繕つて己れの裸体を隠さうとしてゐるために、聴いてゐる者は、なんとも言ひ難い違和感を感じる。
歌声は、さういふ取り繕ひから、人を解き放つ。
歌は、ことばのまやかしから人を救ひ出す。
歌ふこと。
言語造形は、歌ではない。
歌ではないが、言語造形によつて話されることばも、再び、人の裸体をまざまざと示してくれる。
磨かれ輝くやうな裸体から、こわばり節くれだつた裸体まで。
音楽のやうな、絵画のやうな、彫刻のやうな、線描のやうな、舞踊のやうな、建築のやうな、ことばのすがた。
造形されたことばとは、造形されたその人である。
人とは、本来、そのやうな、風と光で出来たやうな、目には見えない粒子のやうなものが時に集合し、時に拡散する、「物の怪」ならぬ、「人の怪」である。
ことばのすがたが造形されることによつて、その「人の怪」がかたちをとつて一瞬一瞬立ち顕れる。
ことばを造形しようとするその行為が、ふたたび、その人をその人たらしめる。
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