2019年05月26日

こころのこよみ(第6週) 〜何気ない振る舞ひの中の神々しさ〜


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平櫛田中作「幼児狗張子(ようじいぬはりこ)/1911」 

 
己れであることから甦る、
 
わたしのわたしたるところ。そしてみづからを見いだす、
 
世の啓けとして、
 
時と場の力の中で。
 
世、それはゐたるところでわたしに示す、
 
神々しいもとの相(すがた)として、
 
わたしの末の相(すがた)のまことたるところを。
 
          ルドルフ・シュタイナー 
 
 
 
Es ist erstanden aus der Eigenheit  
Mein Selbst und findet sich
Als Weltenoffenbarung             
In Zeit- und Raumeskräften;         
Die Welt, sie zeigt mir überall
Als göttlich Urbild
Des eignen Abbilds Wahrheit.
 
 
 
じつくりと見る。
じつくりと聴く。
じつくりと受けとる。
 
そのやうに世に向かつて、人に向かつて、意識的に感官を開くほどに、世も人も、ものものしく語りだす。
 
そして、世と人に向かつて我が身を披けば披くほど、我がこころが起き上がつてくる、立ち上がつてくる、甦つてくる。
 
たとへば、幼い子どもを育ててゐるとき、大人の忙しさについつい子どもを巻き込んでしまうことがある。
 
そんな時、よく子どもは大人の意向にことごとく反発して、ぐずつたり、泣きわめいたりする。
 
しかし、この「忙しさ」といふこころの焦りに、大人であるわたしみづからが気づけた時、目の前の子どもにじつくりと眼を注ぐことができた時、子どもの息遣ひに耳をじつくりと傾けることができた時、子どもが落ちつくことが、よくある。
 
そんな時、子どもがいつさう子どもらしく輝いてくる。その子が、その子として、啓けてくる。
 
そして、さうなればなるほど、眼を注いでゐるわたし自身のこころも喜びと愛に目覚めてくる。わたしが、わたしのこころを取り戻してゐる。
 
子どもを育ててゐる毎日は、そんなことの連続。
 
きつと、子どもだけでなく、お米その他の作物をつくつたり、育てたりすることにおいても、それを毎日してゐる人には、同じやうなことが感じられてゐるのではないだらうか。
 
子どもがゐてくれてゐるお陰で、他者がゐてくれてゐるお陰で、ものがあつてくれるお陰で、わたしはわたしのわたしたるところ、わたしのまことたるところを見いだすことができる。
 
他者といふ世、それはこちらが眼を注げば注ぐほどに、いたるところでわたしにわたしのまことたるところを示してくれる。
 
他者に、世に、わたしのまことたるところが顕れる。
 
そして、そのわたしのまことたるところが、神々しい元の相(すがた)に相通じてゐる。
 
人は、そもそも、神々しいもの。
 
その神々しさは、日々の何気ない振る舞ひ、ことば遣ひ、眼差しといふ「わたしの末の相(すがた)」の中に、ふと、顕れる。
 
その日々の何気ない相に、神々しいもとの相、人としてのまことたるところが、ふと、示される。
 
生活の中に、他者の中に、己れのふとした振る舞ひの中に、神々しいものが顕れる。
 
そんな、日々、つきあつてゐるものといふものや他者を通してこそ、啓いていくことができる信仰のことを、今週のこよみは歌つてゐる。
 

 
 
己れであることから甦る、
わたしのわたしたるところ。そしてみづからを見いだす、
世の啓けとして、
時と場の力の中で。
世、それはゐたるところでわたしに示す、
神々しいもとの相(すがた)として、
わたしの末の相(すがた)のまことたるところを。
 
 

諏訪耕志記
 
 
 


posted by koji at 16:17 | 大阪 | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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