
文化と書いて、
それに文化(ハニカミ)とルビを振る事、
大賛成。
私は優といふ字を考へます。
これは優れるといふ字で、
優良可なんていふし、優勝なんていふけど、
でも、もう一つ読み方があるでせう?
優しいとも読みます。
さうして、この字をよく見ると、
人偏に憂ふると書いてゐます。
人を憂ふる、
ひとの淋しさ侘しさ、つらさに敏感な事、
これが優しさであり、
また人間として
一番優れてゐる事ぢやないかしら、
さうして、そんな、やさしい人の表情は、
いつでも含羞(はにかみ)であります。
私は含羞で、われとわが身を食つてゐます。
酒でも飲まなけれあ、ものも言へません。
そんなところに
「文化」の本質があると私は思ひます。
「文化」が、もしそれだとしたなら、
それは弱くて、敗けるものです、
それでよいと思ひます。
私は自身を「滅亡の民」だと思つてゐます。
まけてほろびて、その呟きが、
私たちの文学ぢやないのかしらん。
(太宰治書翰 河盛好蔵宛)
自分の仕事つてなんだらうなと、改めて考へてゐて、この太宰の手紙のことを想ひ起こしました。
我が国ならではのもの、その根もとに息づいてゐるものを意識すること。
太宰は、それを優しさ、とも、含羞(はにかみ)、とも、表現される「文化」だと言つてゐます。
古来、我が国の詩人たちは、その奥底に息づいてゐるものを様々に言ひ表してきました。
「言霊の風雅(みやび)」、「侘び」、「寂び」、「しおり」・・・
本居宣長に至つて、「もののあはれを知ること」とも言ひ表されました。
それは、特に自分の場合、日本語といふ、ことばを意識していくことでもあつて、日本語ならではの調べに意を注ぎながら、ことばの運用を大事にしていくことでもあります。
日本では、特に、こころを整へてから、ことばを話す、といふよりも、ことばを整へることで、こころを整へ、育んでいく、そんな道があることに、ある種の驚きと誇りをも感じるのです。
言語造形を通して、その根もとに息づいてゐるものを、葉と繁らせ、花と開かせ、実とならせること。
それこそが、自分の仕事であるのだな。
そして、もしかしたら、それこそが、世界中に通じていくやうな、まこと遍き意味(こころの味わい)をもつのではないだらうか。
よその国の人がこころから感心しうるもの、それは、日本なら日本ならではの、こころの味わいの深さ、豊かさ。
これは、己れだけ(日本だけ)を観てゐて済むことでは、きつと、なくて、他者(外の国、民族)との出会ひの中でこそ見いだされていくことでせうが、自分自身の足許をこそ深く掘つてゆく、そんなおほもとの志が大きくものを言ふやうに思はれます。
また、こんなことも考へるのです。
わたしたち日本人の意識の深みに古代から引き続きずつと憩つてゐるもの。
それは、「神から引き離されてしまつたわたし」ではなく、いまだに「神とひとつである<わたし>」、いはば、「神(かむ)ながら」であること・・・。
もし、さうであるならば、その奥底にあるものをこそ、改めて意識に引き上げ、それを、活き活きと、発剌と、表現し、表に顕していくこと。それは、わたしたち日本人が荷つていつていい、ひとつの役割かもしれない。
ヨーロッパやアメリカを中心とした「文化」のあり方は、やがて、古来から秘められ続けてゐるアジア、とりわけ日本の「文化」のあり方と、出会ふでせう。これは、未来のことだと思ふのです。
その時、どちらかがどちらかを征服するのでなく、真に出会ふ未来に向けて、わたしたちは、己の本来もつてゐるものを磨き、研ぎ澄ませるぐらゐの意識を育んでいくことが大事だなと思ふのです。
でも、そんなことは、たいてい、日常の生活の中では忘れ去られてしまつてゐるものですから、だからこそ、想ひ起こす必要がある。
慎ましく、かつ、怠ることなく。
なんだか、大風呂敷をひくやうなことを書いてしまつた嫌ひがありますが、そんなことを考へつつ、仕事をしてゐます。
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