2019年05月14日

こころのこよみ(第4週) 〜主と客、重ねてあわせて「わたし」〜


s_denchu_works29.jpg
平櫛田中作「蕉翁像」

 
「わたしは、わたしのわたしたるところを感じる」
 
さう感覚が語る。
 
それは陽のあたる明るい世の内で、
 
光の流れとひとつになる。
 
それは「考へる」に、
 
明るくなるやうにと、暖かさを贈り、
 
そして人と世を、
 
ひとつに固く結びつけようとする。
 
      ルドルフ・シュタイナー
 
 
Ich fühle Wesen meines Wesens:
So spricht Empfindung,
Die in der sonnerhellten Welt
Mit Lichtesfluten sich vereint;
Sie will dem Denken
Zur Klarheit Wärme schenken
Und Mensch und Welt
In Einheit fest verbinden.
 
 
 
シュタイナーがここで使つてゐる「感覚(Empfindung)」といふことばは、「受けて(emp)見いだす(finden)」からできてゐることばだ。
 
感覚には、人によつて受けて見いだされた光、色、響き、熱、味、触などがある。
 
これらは、外から人に向かつてやつてくるものである。
 
しかし、感覚は人の内からもやつてくる。
 
からだの内からやつてくる空腹感や疲労感、こころの内からやつてくる意欲や感情や考へも、感覚なのだ。
 
なぜなら、みづからのからだもこころも、世の一部だからだ。
 
色や響きなど、外からのものを、人は感覚する(受けて見いだす)し、情や意欲や考へといふ内からのものをも、人は感覚する(受けて見いだす)。
 
しかし、外からの感覚は、外からのものとして客として迎へやすいのだが、内からの感覚は、内からのものであるゆゑに、客として迎へにくい。
 
主(あるじ)としてのみづからと、客である情や意欲や考へとを一緒くたにしてしまいがちだ。
 
主と客をしつかりと分けること、それは客を客としてしつかりと観ることである。
 
みづからの情や意欲や考へを、まるで他人の情や意欲や考へとして観る練習。
 
明確に主(あるじ)と客を分ける練習を重ねることで、分けられた主と客を再びひとつにしていく力をも見いだしていくことができる。
 
その力が、こころを健やかにしてくれる。
 
主と客を明らかに分けるといふことは、主によつて、客が客として意識的に迎へられる、といふことでもあらう。
 
そして、やつてくる客に巻き込まれるのではなく、その客をその都度ふさわしく迎へていくことに習熟していくことで、主は、ますます、主として、ふさわしく立つていく力を身につけていくことだらう。
 
人が、外からのものであれ、内からのものであれ、その客を客として意欲的に迎へようとすればするほど、客はいよいよみづからの秘密を明かしてくれる。
 
感覚といふ感覚が、語りかけてくる。
 
客のことばを聴くこと。それが主(あるじ)の仕事である。
 
外の世からの感覚だけでなく、考へ、感じ、意欲など、内に湧き起つてくる感覚を、しつかりと客として迎へる仕事をするほど、その客が語りかけてきてゐることばを聴かうとすればするほど、わたしは「わたしのわたしたるところ」を日々、少しずつ、太く、深く、大きく、成長させていく。
 
その仕事によつて、わたしは、みづからの狭い限りを越えて、「わたしのわたしたるところ」をだんだんと解き明かしていくことができる。
 
主によつて客が客として迎へられるといふのは、客によつて主が主として迎へられるといふことであるだらう。
 
またそれは、主と客が心理的にまぜこぜになるといふことではなく、精神的にひとつになるといふ、人と世との、もしくは人と人との、出会ひの秘儀とも言つていいものではないだらうか。
 
そして、主と客がひとつになるときに、「わたし」(わたしのわたしたるところ)がいよいよ明らかなものになつていく。
 
つまり、主=「わたし」ではなく、主+客=「わたし」なのだ。
 
たとへば、セザンヌの絵や彼の残したことば、もしくは、芭蕉の俳諧などに接し続けてゐると、ものとひとつになることを目指して彼らがどれほど苦闘したか、だんだんと窺ひ知ることができるやうになつてくる。
 
彼らは、世といふもの、こころといふものの内に潜んでゐる大きな何かを捉へることに挑み、そのプロセスの中で壊され、研がれ、磨かれ、その果てにだんだんと立ち顕れてくる「人のわたし」といふものへと辿りつかうとした。
 
彼らは、色彩といふもの、こころといふもの、さらに風雅(みやび)といふものと、どこまでも辛抱強く向き合ひ、その上で、ひとつにならうとする仕事を死ぬまでやり通した人たちだ。
 
ものとひとつになるときこそ、「人のわたし」ははつきりと立ち顕れてくることを彼らは知つてゐた。
 
感覚を客としてふさわしく迎へれば迎へるほど、それは、「わたしのわたしたるところ」の拡がりと深みを語つてくれる。
 
また、わたしはそのことばを情で聴き取るにつれて、わたしは、客について、己れについて、さらには「わたし」について、明るく、確かに、考へることができる。
 
そして、わたしと世がひとつであることへの信頼感をだんだんと得ていくことができる。
 
 
 
「わたしは、わたしのわたしたるところを感じる」
さう感覚が語る。
それは陽のあたる明るい世の内で、
光の流れとひとつになる。
それは「考へる」に、
明るくなるやうにと、暖かさを贈り、
そして人と世を、
ひとつに固く結びつけようとする。
 




posted by koji at 22:10 | 大阪 ☔ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。