ナショナル ジオグラフィック協会の「世界の美しい鳥たちより」
世のすべてに語りかける、
己れを忘れ、
かつ、己れのおほもとを肝に銘じながら、
人の育ちゆく<わたし>が、語りかける。
「あなたの内に、わたしは解き放たれる、
わたし自身であることの鎖から。
そして、わたしはまことわたしたるところを解き明かす」
ルドルフ・シュタイナー
Es spricht zum Weltenall,
Sich selbst vergessend
Und seines Urstands eingedenk,
Des Menschen wachsend Ich:
In dir befreiend mich
Aus meiner Eigenheiten Fessel,
Ergründe ich mein echtes Wesen.
「語る」とは、「聴く」ことである。
そのことが、言語造形をしてゐるとリアルに感じられてくる。
語り手みづからが聴き手となること。
頭で考へないで、聴き耳を立てながら、語るやうにしていく。ひらめきが語りを導いてくれるやうに。
「ひらめき」とは、語り手の己が空つぽになり、その空つぽになつたところに流れ込んでくる「ことばの精神」。それはまるで、からだにまで流れ込んでくる生きる力のやうだ。
その「ひらめき」「ことばの精神」は、聴き耳を立てるかのやうにして待つことによつて、語り手に降りてくる。
「語る」とき、自分が、かう語りたい、ああ語りたい、といふことよりも、「ことばといふもの」「ことばの精神」に、耳を傾け、接近し、沿つていきつつ語る。
己れを忘れて、かつ、己れのおほもと(ことばの精神)を頼りにしながら、語り、語り合ふことができる。
そのやうに、語り手が「ことばの精神」に聴き耳を立てながら語ることによつて、聴き手も「ことばの精神」に聴き耳を立てる。
そのやうな「ことばの精神」と親しくなりゆくほどに、語り手、聴き手、双方の内なる<わたし>が育ちゆく。
だから、今週の「ことばのこよみ」での、「世のすべてに語りかける」とは、世のすべてから流れてくる「ことばの精神」に耳を傾けることでもある。
そのときに流れ込んでくる「ものものしい精神」「ありありとした精神」を感じることによつて、わたしは解き放たれる。みづからにこだはつてゐたところから解き放たれる。
だから、たとへば、「他者に語りかける」時には、こちらから必ずしもことばを出さなくてもよく、むしろ、「他者をよく観る、他者の声に聴き耳を立てる」といふこと。
そのやうな「語り合ひ」「聴き合ひ」においてこそ、人は、みづからを知りゆく。「ああつ、さうか、さうだつたのか!」といふやうな、ものごとについての、他者についての、みづからについての、解き明かしが訪れる。
互ひがよき聴き手であるときほど、対話が楽しくなり、豊かなものになる。
特に、この季節、自然といふものをよく観ることによつて、聴き耳を立てることによつて、他者をよく観ることによつて、他者のことばに聴き耳を立てることによつて、自然との対話の内に、他者との対話の内に、わたしは、わたし自身であることの鎖から解き放たれる。そして、わたしは、まことわたしたるところを解き明かす。
芽吹き、花開くものたちにたつぷりと沿ふ喜びを積極的に見いだしていきたい。
世のすべてに語りかける、
己れを忘れ、
かつ、己れのおほもとを肝に銘じながら、
人の育ちゆく<わたし>が、語りかける。
「あなたの内に、わたしは解き放たれる、
わたし自身であることの鎖から。
そして、わたしはまことわたしたるところを解き明かす」
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