2019年04月24日

ことばの違ひ


芸術や教育における「ことば」と、政治における「ことば」の違ひには、意識的であるべきだと思ふ。
 
 
前者の教育・芸術における「ことば」には何が欠かせないか。それは「尊敬」や「畏敬」といふ念ひである。
 
ひとりの人を尊敬し、ひとりの人にふさはしい権威を覚えること、これは小学生が最も心の底から求めてゐることである。
 
しかし、わたしをも含め現代の日本人は、このこころの力のなんたるかを全くと言つていいほど教へてもらつてゐない。このこころの力を育んでゐない。
 
例へば、日本の歴史を考へていくときなど、この「尊敬」「畏敬」といふ感情をもつてこそ、国民を過去から未来に渡つて支へることのできる学問・芸術になるのだ。
 
教育・学問・芸術における「ことば」は、人を根底から支へる、そんな働きをもつ、永遠を志向するものであるべきだと思ふ。
 
 
しかし、後者の政治における「ことば」には、「勝利」「勝つこと」に向かふ思考力と決意が欠かせない。
 
日下公人氏の著書『優位戦思考で世界に勝つ』を読むと、印象深いアメリカの小噺が載せてあつた。
 
●メリーちゃんとマーガレットちゃんは大の仲良し姉妹でした。あるとき、「オヤツの時間ですよ」と言われて二人が行ってみると、テーブルにはケーキが一つしか載っていませんでした。メリーちゃんは「マーガレットちゃんの分がない」と泣き出しました。
 
そして、日下氏はかう述べてゐる。
 
●これが優位戦思考である。メリーちゃんはケーキを確保できるうえ、「妹思いの、いいお姉さんですね」と褒められる。先んずれば人を制す。劣位に追い込まれることなく自分の利益を確保できる。欧米の政治家や外交官、経済人は、そうした思考に長けている。
 
  
この政治における「ことば」のリアリティーを知らない、自称教育家・知識人が多いやうに思ふ。
 
さういふリアリティーの欠如は、つまるところ、自分をも他人をも、不幸にするのではないかと思ふのだ。
 
わたし自身、この「ことばの違ひ」に対して、いつさう意識的でありたい。


posted by koji at 23:06 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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