大和文華館の『富岡鉄斎 ――文人として生きる』展に足を運んだ。
圧巻だつた。
絵を観るといふ行為は、色彩と線と余白に秘められてゐるこころを観ることである。
こころを観ると書くとき、「観」の字を使つたが、この「観」といふ字はそもそも「觀」と書き、左側の偏は「雚」で、鳥である。
だから、「觀る」とは、鳥のやうに翼を羽ばたかせ自由に空を舞ひながらものを見る、そんなこころの若々しい働きのことである。
「觀る」とはまた、高みに舞ひ上がりながら、まるごとを見晴るかすことであり、同時に高みから下方にある一点に突撃急降下するやうな、こころの働きである。
絵を通して画人のこころの働き、氣の動きを觀る。それは、画人の内的な動きに沿つて、觀る者も共に動き、踊り、舞ひ上がるといふことだ。鉄斎は、その共なる舞踊と飛行の歓びをたつぷりと味ははせてくれる。
ちなみに鉄斎はあくまでも自らを学者とし、画は余技とみなした。それは、一個の作品が己れのこころの動きを収めるだけでなく、そこに、古今にわたる先人たちの叡智・学識といふ河の流れのやうな精神の伝統を注ぎ込まうと志したからである。
「萬巻の書を読み、千里の路をゆく」といふ隣国だつた明の文人画家が掲げた志とも言ふべき職業倫理を、鉄斎は終生貫いた。
ひとつひとつの作品の、絵と文と余白からなる平面における構成。それは、何十年にもわたつて先人の筆の運びに倣ひつつ身につけたものであらうが、いささかも単なる模倣に堕してゐない。過去に徹底的に学んだ者だけが得る自由自在が、その構成の妙として顕れてゐて非常に味はひ深い。
今回の展示で掲げられてゐる作品のひとつ『月ヶ瀬図巻』など、どうだらう。
春の月ヶ瀬の渓谷にわたる白梅と紅梅の連なり。山の面を占めるほのかな緑と、あなたにたたなづく青い山蔭。
縦十九センチ、横三メートル半にわたるこの長巻の前を、右から左へ歩を進ませながら觀るとき、その一筆一筆の運びから、淡く彩られた色の配置から、得も言はれぬ音楽が聴こえて来る。
「山水を築き、門戸に身をゆだねると、画を觀る者の内には煙霞(えんか)が限りなく拡がる」と、ある画の跋にある(原文は漢文)。
絵を觀るとは、一枚の画布の向かうに「煙霞」のやうに限りなく拡がる「別世界」に、入つて行くことである。
大和文華館に、わたしは、おそらく、おほよそ十年に一度位の割合で足を運んでゐると思ふ。二十代、三十代、四十代、そしていま五十四。
奈良の学園前、閑静な住宅街を通り抜け、どこかしら大和路の香りのする雰囲気にそのつど胸をときめかしながら、ここに絵を觀に来る。
館の前に、福島県三春町から移植したといふ三春滝桜が見事な枝ぶりで、その蕾が桜色に膨らんでゐた。あと一週間もすれば、滔々とした春の美を発散させるだらうと思はれた。
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