ルオー『ピエロ』
人は芸術に触れてゐなければ、獣となつて、のさばり出さずにはゐられない。
獣になるとは、己が身の要求するところに、己がこころが引き寄せられすぎる、そのやうな偏りをもつてしまふことである。もちろん、こころは、己が身の働きの充足に満ち足りを覚える。腹が減つてゐれば、当然、食べ物を欲する。
しかし、こころといふものは、「パン」のみにて満たされるやうにできてはゐない。こころは、精神といふ、天地(あめつち)のあり方を支えてゐる奇(くす)しきことわりに触れなければ、干乾びてしまふ。
その天地を貫く精神がこの世に生きて親しく人の身に味ははれるのは、ひとり、芸術をもつてである。芸術は、人が人であるために、なくてはならないものなのだ。芸術は、必ず、人に道を示す。芸術を行ふこと、生きること、そのことが、「道」である。「道」とは、ゆくところである。
そして、人が行ふことすべてが、芸術となりうる。この世のすべて、森羅万象が、神によつて織りなされてゐる芸術作品であるやうに、人によつてなされるすべて、作られるすべては、芸術行為となりえ、芸術作品となりうる。
わたしたちは、いともたやすく獣道に降つてしまふ悲しい存在である。しかし、その悲しみが、かえつて、ひとりの人として、人の道を歩まうといふ意欲を掻き立てる。わたしたちは、その意欲をこそ育てたい。意欲さへ殺さずに育み続けてゐれば、人はおのづから、人としての道をめいめい歩み始めるのだ。何度、崩れ折れても、必ず、立ち上がるのだ。
芸術は、意欲をもつて、毎日の練習といふ繰り返しの行為を人に求めるものである。そして、その芸術の練習が、また、人の意欲を育てる。その、芸術と自分との集中した意識の交換、己が意欲の更新を感じることは、人を幸福にする。
古来、日本人は、「言霊のさきはふ国」として、この国を讃えてゐた。それは、人は誰しも、生きる喜び、悲しみ、すべての感情を感じ、かつ、ことばといふ芸術の中でこそ、初めてその感情を表すことができ、その感情に対する主(あるじ)になることができる不思議に、鋭く気づいてゐたからである。ことばこそが、獣道(けものみち)から、人をまことの道へと引き戻す、なくてはならないものであることを知つてゐたからである。
ことばそのものに秘められてゐるたましひ・精神自身が、何を希(ねが)つてゐるか。そこに耳を澄ましつつことばを発していく。聴き耳を立てながら、ことばを話す。そのとき、ことばの精神・言霊は、ものを言ひ始める。ものものしく、ものを言ひ出す。
わたしたち人は、どのやうなことばを、どのやうに使ふかによつて、その「言霊」との関係を深めることもできれば、浅薄なものに貶めてしまふこともできる。それは、ひとりひとりの人の自由に任されてゐる。
獣道を歩むこともできるし、ひたすら長い、人の道を歩みゆくこともできるのだ。
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