学問においても、芸術においても、そんな風に感じられる子どもを育てていきたい。
いや、自分自身も、さういふところへ歩を進めていきたい。
たやすいところに甘んじてゐても、一向、こころは燃え立たない。
昭和のあるころまでの文化を荷つてゐた人たちは、その気概があつた。
本を読んで、人は、読みつつ考へる喜びを知つてゐた。
音楽を聴いてさへ、人は、考へてゐた。深く、考へてゐた。
そして、考へる力と繰りなすことばとが、知的に綾をなしてゐた。
平成といふこの三十年間は、文化の面においては何事も分かりやすいことが第一のモットーとなり、社会のあらゆる面においては行き届いたサービスこそが至上の善となつた。
しかし、わたしたちは、自分の人生を成熟させえただらうか。
社会は、人が人として、己れが己れとして誇り高く生きていく、そんな雰囲気を醸造しえただらうか。
人は、己れの内なる〈わたし〉を育めば育むほど、自分よりももつとたいせつな人やものがあることに気づき、そのやうに生きていく。
そして、過去と未来を繋ぐ存在としての自分といふ人間の役割を自覚することができる。
逆に、他者から与へられてばかりで、〈わたし〉が未成熟なままだと、このわたしこそがもつとも大事なものになつてしまひ、意識は自分のことだけに尽きてしまふ。
難しいものに取り組んでこそ、その中に、崇高と美と真実があることを体得できる。
さういつたものをことごとく避けて来たのが、この平成の代だつたやうに思はれる。
〈わたし〉を育むためには、歯応えのあるものに取り組み続けることである。
わたし自身、気づくのが遅すぎたのではないか、とこの三十年を振り返る。
そんな平成が終はらうとしてゐるいま、新しい御代は、きつと、これまでとは趣を異にした新しい時代にするのだ、と強く念ふ。
ふたたび、人の自主独立した精神がものを言ふ時代に。
自分の頭でものを考へ、自分のことばでしつかりとものを言ふ。
自分の足でしつかりと立つ。
多少の歯応えのあるものにも恐れずに果敢に取り組んでいく。
そんな若者を育てていくためには、わたしたち大人が、これまでのやうな「わかりやすさ第一」「至れり尽くせりのサービス」に甘んじるやうな精神をいま一度見直していいのではないか。
わたしは、男なので、どうしても男の子には、そんな気概を持つてもらひたく思つてしまふ。
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