小西 収 (小西収)さんが記されてゐる文集『音楽の編み物』。
ここに収められてゐる文章は、筆者が演奏者、指揮者、編曲者として音楽の内側に活き活きと入り込む何十年もの時間の中から生まれたもので、どれも非常に興味深く、含蓄と芸術的・哲学的示唆に溢れたものです。
とりわけ、十数年前に書かれた文章で、最近再録されたものである『音楽テーゼ集』。
これは、芸術に直接携わつてゐる者には、ジャンルの違ひはあれども、そこにはつきりとした共感を寄せうる記述の連続です。
思はず、さうさう、と膝を打ちながら喜悦の内に読んでゐます。
テクスト=書物(本)は、
文章の《存在以前の状態》の典型である
楽譜=スコアは、
音楽の《存在以前の状態》の典型である
(第二章「 楽譜とはテクストである」から)
さうなのです。
「文章の存在以前の状態」が、確かにあるのです。
言語造形といふことばの演奏は、テクストといふ元手(典型)を踏み台にしながら、その「文章の存在以前の状態」に歩み寄つて行く営みであります。
きつと、音楽を奏でる行為とは、楽譜を元手(典型)としながら、音楽の《存在以前の状態》へと踏み入つて行く営みです。
だからこそ、そこには、精神の自由が生まれ得ます。
一つの音楽作品を編曲の対象としてみるとき、
それには、微分方程式の一般解に相当するような、
“原曲以前”の原初的側面がある
(第五章「編曲とは、原曲とは別の特殊解へ至らんとする道である」から)
この「“原曲以前”の原初的側面」は、作曲者本人でさへも意識してゐない可能性がある側面です。
よつて、文学作品も、作者本人に触知されてゐない精神の傳へを、演奏家である言語造形をする者が触知することがあり得ます。
なぜなら、音楽演奏も言語造形も、「音」と「ことばの音韻」といふ人が創り出したのではない、神が人に贈り給ひしものをその素材としてゐるからなのです。
その素材こそが、作曲者や作家の意図を越えて、ものを言ひ、演奏者や俳優は、その音の響きが何を伝へようとしてゐるかに耳を澄ますことが仕事であるからです。
作曲者とて演奏する「私」にとっては他人である。
ときには作者をも脇に置き、
作品そのもののテクスト=楽譜を自分で読むこと
──それが、読譜の基本である
(第二章「 楽譜とはテクストである」から)
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