2019年02月15日

幼な子はわたしたちの先生

 
IMGP0087.JPG

IMGP0080.JPG

IMGP0106.JPG


赤ん坊や幼い子どもを前にするとき、わたしたちは微笑ましい思ひや、ときにあらたまつた思ひに一挙に包まれはしないでせうか。
 
そして、思はず微笑んだり、その子に話しかけたりしたくなります。
 
あの独特の感覚。
 
その感覚を意識的に大事に保ちながら、子どもに昔話を語りかけたり、絵本を読んで聴かせたりするとき、語り手のわたしたちは、逆に子どもたちから、「語る」といふ行為とはどういふ行為であるのかを学ばせてもらつてゐます。
 
そして、さらに、あらためて感じられることは、その時期の子どもたちの成長にとつて要となるものは、動きなんだといふことです。
 
子どもたちはお話や歌のことばが分かる、分からないよりも、そのことばに合はせて、内的にも外的にも、動くことができるかどうか。
 
動きのあることばが、子どもたちの傍にゐる大人たちによつて話されてゐるか。
 
それらのことが、ことのかなめなのです。
 
なぜなら、ことばとは、そもそも、動きに裏打ちされてゐてこそ、ことばのいのちを取り戻すのですから。
 
ことばといふものを通して、この時期は、すべてのものが、生きてゐる、動いてゐる!
 
わたしも僕も、みんな生きてゐる、動いてゐる!
 
そして、ことばといふものも生きてゐる、動いてゐる!
 
そんないのちの感覚、動きの感覚、ことばの感覚を育んであげたいのです。
 
ことばを聴く力、響きに耳を傾けられる力も、大人のやうに静かにして聴いてゐるのではなく、動きの中でこそ、動きによつて生まれるバランス感覚の中でこそ、育まれます。

IMGP0225.JPG

 
もちろん、大人でさへも、何かに一心に耳を傾けてゐるときには、からだは動かさずとも、内側を動かしてゐます。
 
シュタイナーは、「聴き手は、話す人の声をなぞるがごとく、内側で発声してゐます。それは内なるオイリュトミーなのです」と語つてゐます。
 
その内側の動きを意識するか、しないかは、その人によります。
 
しかし、子どもは、すべてを無意識に、動きとして受けとろうとし、彼らの成長に不可欠な感覚を育んでいきます。
 
外的に動くときは、できるだけ、調和のとれた動き、かたちある動き、かつ伸び伸びと子どもたちの成長を促すやうな動きに導いていくことができたら、素晴らしいですし(ライゲンやお話ごつこも工夫すると素晴らしいものになります)、羽目をはづした子どもたちの動きにも、「座りなさい、静かにしなさい」といふことばではなく、そのつどそのつど、芸術的に対応して、ことばの裏側にある動きを通して、子どもたちを大人の呼吸の中に導いてあげられます。
 
幼児期に、動きの中でいのちあることばを聴いて育つた子は、小学校に入つてから、今度は自分から動きのあることばを使ふこと、話すことができるやうになつていきます。
 
言語造形は、そんなことへの感覚を、大人の中に、もう一度呼び覚まし、大人自身をも生き返らせる働きがあるのです。
 
さういつた、言語にとつて、人にとつて、いのちを湛えるありやうとはどのやうな語り方をすればいいのか、それを、幼な子たちは、大人であるわたしたちに教へてくれます。
 

 
IMGP0133.JPG

IMGP0184.JPG

IMGP0187.JPG

IMGP0149.JPG

 


posted by koji at 10:36 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。