昨日は、中之島中央公会堂にての 第19回大東亜戦争を語り継ぐ会「大東亜戦争の原点を探る」に参加しました。
あのクラシックな会場におそらく千人以上の人々が来てゐる様は、壮観でした。
近現代史を色々な面から学びたい、さう思ひ、色々な所へ足を運んでゐます。
まづは、先の大戦に対して、ある偏つたひとつの見方に捉われることなく、多角的に、かつ、しつかりと自分の中の認識を深めたいと思つてゐます。
大きなものごとを動かすとき、文書といふものがたいてい残されます。
わたしたちは、その残されてゐる文書を丁寧に見て取つていくことによつて、時の政局の中で、人がどう考へ、どう動いたかが、客観的に見えて来る。
さうして得られていく認識を積み重ね、自分自身で考へ、判断していくならば、だんだんと、ことの真相が啓けてくる。
1995年にアメリカ政府によつて公開されたヴェノナ文書によつて、それまで秘されてゐた事実が公になつたこと、登壇者のおひとり、江崎道朗氏の著作に詳しいのですが、アカデミックな環境にゐる人ほど、ある種の一義的な価値観の中に閉じ込められてゐて、いくら真実の事柄を見せられても、理解しようとしないし、理解できない。
そのことから、教育といふ分野に、どういふ思惑と策略が絡んで来てゐるかに思ひ当たり、暗澹としてしまひます。
むしろ、いはゆる高学歴といふものもなく、ただひたすらに働き続けてゐる人が、自分自身の頭で考へ、こころで感じる経験を積み重ねることで、ことの真実がどこにあるかを摑むことができる。
しかし、それらの多くの人々は、それをことばに表す術を知らず、利口な人たちの雄弁の前に沈黙を強いられてゐる。
昨日の講演で、日本よりもアメリカでこの状況に拍車がかかつてゐるとのことを知らされ、さもありなんと思ふのです。
自分自身の目で見て、自分自身の頭で考へる。そして、自分自身のことばで語る。
この当たり前のことが如何に難しいか。
歴史観を自分自身の中で育てていくことは、大変なことです。
しかし、その営みが、きつと未来を導く。
わたしたち大人は、テレビや新聞、もしくはインターネットの表層的な情報やなんとなくのイメージに踊らされたり、凝り固まるのではなく、本当に学んでいきたいものです。
世界の歴史を、とりわけ自国の歴史を、色眼鏡をかけずに学んでいくこと、本質的にはそれはとても密やかな学びですが、きつと、子どもたちに、そして自分自身に希望を与へます。
失望や落胆、自虐ではありません。
希望と自尊です。
昨日の講演会・シンポジウムを通して、そんな念ひを強く持ちました。