
「これもあり、あれもあり」ではなく、「ここからとあそこから、いいとこだけ取つて自分の役にたてよう」でもない。
「これだ」といふものを深めていく。
自分たちのやり方、仕事の進め方、人生の生き方、それらが、ますます、明確なものになつてきたやうに感じてゐます。
現代人に多く見られる相対的なものの見方、生き方。
それは、大いにあつていいことだと思ふのです。
何事も比較して、検討して、そこから良きもの、役立つもの、得するものを取り入れる。
そんな生き方は、現代人にとつては当たり前に近い感覚でせう。
しかし、それは、どこか、自分自身のこころに対する信頼のなさに裏打ちされてゐるありやうに感じられる。
さういふ生き方とは、また違ふ、もう一つの生き方もあつていい。
「これだ」といふものを深めていく。
そのやうなあり方は、ときに、なだらかでない、不器用さが表立つやうなことにもなるでせう。
お洒落でもなく、垢抜けないたくさんの時期もくぐらなければならないでせう。
しかし、どんな世界にも、「これだ」といふ次元があり、その「これだ」の奥へ、奥へと入つていくことによつて、そこには思つてもみなかつた豊穣な沃野が広々と拡がつてゐることに、人は驚異と畏敬と尊崇の念ひにうたれるのです。
依怙地になつて言ふのではないのですが、己れのうちに「これだ」といふものを深めていく絶対の力をもつこと。
そしてそのためには、自分なりの意見だとか、自分なりのやり方をいつたん捨て去り、自己を空つぽにして学ばうとする謙虚で素直なこころの力が必要です。
我流ではなく、世の法則に沿ふことです。
亜流とは、全くの素人から生まれるのではありません。
道に好意を寄せてゐる人々。しかし、そのやうな人々のうちに潜む軽薄から、もしくは己れを見つめ切らうとしないごまかしから、必然的に生まれます。
ただ、亜流はいくらあつてもいい。
しかし、しかし、本流を細らせてはならない。枯らせてはならない。
本流を生きるのは、「これだ」を生きる者です。
自分なりのやり方をおいておき、世の法則に沿ふ道、さういふ科学的・芸術的・宗教的な道を歩くことの健やかさを、これからはいっさう意識的に生きていきたいと思ふのです。
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