2018年08月22日
己れのことばを持つ人
ことばは、人に考へがあることを知らせる。
感情があることを知らせる。
欲求があることを知らせる。
そして、希ひがあることを知らせる。
その希ひとは、精神からのものであることもある。
ことばは、人に精神があることを知らせてくれる。
だから、己れのことばを持つ人は、自分自身の考へや情や思ひを精確に表現することができるやうになつてゆくだけでなく、自分自身の内側にある豊かなもの、無尽蔵なものに気づくことができるやうになつてくる。
そもそも、人とは、ことばを持つことによつて、<わたし>といふものに気づいていくことができ、<わたし>といふ人になりゆくことができる存在なのだ。
考へがあつて、ことばにするのではない。
ことばを発し、聴くことから、人は、考へることを習ひ、覚えへていくことができる。
ことばの発し方、聴き方に習熟していくほどに、己れの考へ方が明瞭になり、深まり、繊細になる。
だから、「はじめにことばありき」であり、とりわけ我が国は、「言霊の幸はふ国」である。
日本語を話すといふこと。日本語を深く聴きとるといふこと。
国語力といふものが、人が人になりゆく上で、どれほど、たいせつな力か。
「ことばの家 諏訪」では、自分自身を、そして子どもたちをことばを持つ人となるべく育てていく、そんな働きをしていきたいと希つてゐる。
※これらのことがらについて深めたい方は、ルドルフ・シュタイナーの『普遍人間学(鈴木一博訳)』第九講をご参照ください。
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