●語りが始まったとたん、自分の耳だけでなく、全身、いや、からだが上下左右大きくのび拡がって聴いてる、というような不思議な体験をしました。圧倒されました。後半はもう語り手の諏訪さんと自分と部屋の空間の区別がつかないような状態になりました。
(y.j.さん)
●中島敦が諏訪さんに乗り移ったような、一つの物・弓・言語造形を追い求めていく姿が、重なりあっていたような気がしました。独特の世界にひきこまれました。
(m.k.さん)
●中島敦のことは全く知りませんでしたが、諏訪さんの彼についての前もっての説明を聴き、何と不運な方で、無念を残して、この世を去ったんだ、と知りました。諏訪さんの話芸も一段とそのすご味を増して、名人の域に達して来た気がします。落語、講談とは、また違った芸であると思います。応援しています!!
(m.m.さん)
●今日は人生の課題をもって観させていただきました。本格的に芸術家としてやっていけるのか、どうか、というわたしの課題です。そして、大きなヒントをいただきました。芸術家のやりたいことは、「目にみえないものをみんなにわかるように表現すること」、それに尽きる。そのことがわかりました。その媒体が、諏訪さんの場合は「ことば」であること。そして本当の媒体は「カラダ」なのだということです。そんなヒントをいただきました。
(m.s.さん)
公演が終演したすぐ後にお客様に感想文を書いていただくなど、あまりにも素早い応答をお客様に求めすぎてゐはしないか。
そんな懸念があるにはあるのですが、もう少し違ふ角度から、わたしは感想文を読ませてもらふことを楽しみにしてゐます。
ここでも、恐縮するようなことばを頂いてゐるのですが、書かれたことば、話されたことばといふものは、どこか、瞬間的にも、その人のこころのありやうをまざまざと写すものです。
そのやうな感想文は飾られた上っ面なものに過ぎない、などといふことを言ふ人がゐますが、どのぐらいのこころの深さで文字が綴られてゐるのかは読めば、たいてい人は感じます。
たとへ辛口の感想であつても、まごころを感じる感想文を終演後、読ませていただくことが、とても楽しみなのです。
その楽しみとは、演者であるわたしに対する賛辞を期待してのことと言ふよりかは、観客おひとりおひとりとの、芸術を通しての、ことばを通しての、真剣な出会ひを求めてのことです。
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