2018年07月10日

小西収さんによる『名人伝』ご感想


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先日、行ひました大阪での言語造形公演『名人伝』を聴きに来て下さつた小西 収さんが、日を経て、感想の文章を送つて下さいました。
 
芸術が依つて立つのは、目や耳に感覚できないものの受肉ではなく、むしろ、感覚的・事実的なものの転形・造形なのだといふことを、今回、わたし自身、感じてをりました。
 
芸術といふ、ひとりの人の行為によつて得られた姿・形は、わたしたちを満ち足らせる姿・形であります。
 
その姿・形が、そのまま、精神の顕れでもあります。
 
ことばに、そのやうな姿・形をもたらす。動きをもたらす。いのちをもたらす。
 
音楽における楽譜のやうに、文学のテキストもまたひとつの譜面のやうに扱ふことが可能です。
 
言語造形の試みを、このやうに汲み取つてくださつたこと、それは創造的立場からの極めてありがたい批評で、小西さんには感謝の念に堪えません。
 
密やかにわたしのしてゐることが、ことばをもつて言ひ表されてゐる・・・。
 
それは、本当に嬉しい驚きです。
 
以下、小西さんによる文章を掲げさせていただきます。
 
小西さん、どうもありがたうございます。
 
 

 
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中島敦のこの短編が,これほどまでに高密度に内容の詰まったものであったとは!来場直前の黙読予習ではまったく想像だにできませんでした。
 
「名人伝」の,短いといっていいあの活字の列が,一文・一節・一句・一語・一音・一韻が,音声となって,場所/空間へ次々に降り立ってくる。言葉の彫刻。
 
できあがった彫刻作品ではなく,今,彫られていっている,行為としての彫刻。その“彫刻刀遣い”の振る舞いの,何という忙しさ!そして,それを聴くという充実した時間。
 
どこをとっても聴きどころであるそれらすべてを,逃さず味わい追っていこうとして聴き手の私もまた目紛しく(“耳”紛しく)集中しました。
 
私はただ客として聴いているだけなのに,まるで目の前の芸術家と同時進行で何かをともに作り上げているかのような喜ばしい錯覚もふと起きたほどです。
 
他では真に得難い,貴重な体験でした。
 
上に「内容」と書きましたが,それは私にとっては,物語の意味内容よりもむしろ言葉そのもの(のつながり)・音韻の妙です。
 
そしてそれらの間にある間(ま)や語の発せられる直前の呼気(吸気?)の息遣いまでもが「内容」となって迫ってきました。
 
例えば,「最早師から」の「も」と「もしそれが本当だとすれば」の「も」の何という違い。でありながら同じ「も」でもあるという,造形。…と,例を挙げてしまうと卑小なことのように聞こえることを惧れます。
 
こういう一瞬一瞬の連続であり総体だった,と受け止めました。その全貌はとても書ききれません…。
 
そうした細部のリアリティーがあってこそ,起昌が,飛衛が,甘蠅師が「そこに現れ」,中島敦の「声がした」のだ…と,思い出しつつ今改めて感じております。
 
「真実は細部に宿る」とは,こういうときのためにある言葉ではないかと想起した次第です。
 
また,(終演後も少しお話ししましたが)今回のご公演を受けて,諏訪先生の言語造形の行為が,私の普段携わる音楽演奏表現の行為と通底するということを改めてますます強く感じ入ることができました。
 
失礼を重々承知で書かせて頂きますと「先生と私は,ひょっとしてまったく同じことをしようとしているのではないか」と,嬉しくなり,これからの自分の活動への大いなる勇気づけを頂きました。
 
深い感謝の気持ちでいっぱいです。
 



posted by koji at 15:19 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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