2018年06月19日

マリー・シュタイナーによる序文C


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●言語造形へと迫るといふことは、音韻の働きかけを、空気、吐かれる息といふ媒体に於いて生きることであり、音韻のつくりなし、音韻の発しかたを手のうちにおくことが、言語の器官の法則と求めに応じ、まさに仕事としてなされるといふことである。
 
●それは、音のインタヴァル、響きの陰影への、シャープに育まれた聴覚である。ことばの線は動きに担はれ、ことば、行、聯(れん)に勢いを与へる。その芸術としての線が、突き動かし、アクティブにし、燃えたたせるところであり、精神からインスパイア―され、芸術の才能を授かる<わたし>によつて摑みとられる。その線がこわばつてはならない。間(ま)に於いてもである。間は欠かせないもので、線を造形する。線が間でふたたび精神に浸され、新たな勢ひをとりこむ。そのつど、みづからのこころに沈み込むのでは、線の動きが殺がれ、つまりは己れを見てとる線がでしゃばつてしまふこと、ナルシスの例で知られるとほりである。

 
 
吐かれる息に乗つて、音韻ひとつひとつが空間に造形されます。そして、その息の連続から、おのづとことばとことば、文と文のあひだに生きた間(ま)が生まれ、その間を見えない線が繋ぎます。その線の動きは、どこまでもダイナミックであり、繊細であり、かつ自由です。その線を見失はないこと。見失つてしまひますと、途端に、己れのマスクがものを言ひだし、ナルシスティックな表現の連続となつてしまひます。
 
そして、日本民族ほど、「間(ま)」にこれほどの動きと生命と精神を感得してゐる民族は、さうはいないやうに実感してゐます。
 
間に於ける響きの陰影、ことばの動的な線、それは、あくまでも、話す人のナルシスティックな像の投影ではもちろんなく、主観的・恣意的な生産物でもなく、客としての息遣ひとことばの音韻がもたらす精神の顕現です。
 
わたしたち日本人は、ことばの生命と精神(すなはち、それこそが、「言霊」です)を、民族精神の伝統としてたいせつに育んできた者であります。
 
日本の精神文化のなかに、改めて言語造形が根付いていくやう、毎日励んでいきたいと希つてゐます。



posted by koji at 13:08 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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