
最後の大著『本居宣長』を書き終へた小林秀雄
わたしたちのむかしむかしのご先祖さまたちのこと、ひいては、神々のことを、「考へる」こと、それが、わたしたちの歴史を織りなしてゐます。
科学的に冷たく分析しつつ検証しつつ考へていくことをわたしたちは学問だ、としてゐますが、日本に於ける本来の学問とは、対象について、親しく、愛をもつて、「考へる」こと、それを学問としてきました。
歴史とは、過去に於ける、人々の力と力の争ひや殺し合ひのレポートを書き連ねることではありません。
わたしたちの歴史とは、わたしたちひとりひとりが、信をもつて、愛をもつて、親しさをもつて、わたしたちのご先祖さまたちが苦労して積み上げて来たものごとについて「考へる」ことから織りなされていきます。
そこから、ご先祖さまたちが、何を民族の理想として考へてをられたのかを、現代のわたしたちが追つて考へること、汲みとること、それがとてもたいせつな歴史の学びであります。
その観点にこそ、学問が本当に人間的な学問に生まれ変はる可能性が秘められてゐます。
そのやうな過去を遡るべく営まれ育まれる「考へる力」が、さらに、未来を創り出す「考へる力」へとなり変はります。
未来の人たちに対する信をもつて、愛をもつて、親しさをもつて、「考へる力」へとなり変はります。
歴史を考へる力は、未来を創る力へとなり変はります。
そのやうな「考へる力」によつて織りなされた歴史こそが、未来の人たちの生きる指針、生きる理想ともなります。
考へる力は、過去を検証し、自然に潜んでゐる法則を説き明かすものですが、また、いまだこの世には存在してゐないものを新しく産み出す力でもあります。
そのやうな「考へる力」を育んでいく。
わたしたち現代人の大きな課題のひとつです。
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