
絵:新月紫紺大『諏訪天竜』
外なるすべての感官のなかで、
考への力はみづからのあり方を見失ふ。
精神の世は見いだす、
再び、人が芽吹いてくるのを。
その萌しを、精神の世に、
しかし、そのこころの実りを、
人の内に、きつと、見いだす。
ルドルフ・シュタイナー
Ins Äußre des Sinnesalls
Verliert Gedankenmacht ihr Eigensein;
Es finden Geisteswelten
Den Menschensprossen wieder,
Der seinen Keim in ihnen,
Doch seine Seelenfrucht
In sich muß finden.
わたしは、目を、耳を、もつと働かせることができるはずだ。全身全霊で、ものごとにもつと集中して向かひ合ふことができるはずだ。身といふものは、使へば使ふほどに、活き活きと働くことができるやうになつてくる。
たとへば、自然に向かひ合ふときにも、たとへば、音楽に耳を傾けるときにも、この外なるすべての感官を通して意欲的に見ること、聴くことで、まつたく新たな経験がわたしの中で生まれる。
ときに、からだとこころを貫かれるやうな、ときに、浮遊感を伴ふやうな、ときに、もののかたちがデフォルメされて突出してくるやうな、そのやうな感覚を明るい意識の中で生きることができる。
「外なるすべての感官の中で、考への力はみづからのあり方を見失ふ」とは、感覚を全身全霊で生きることができれば、あれこれ、小賢しい考へを弄することなどできない状態を言ふのではないか。
このやうないのちの力に満ちたみずみずしい人のあり方。それは、精神の世における「萌し」「芽吹き」だらう。
春になると、地球は息を天空に向かつて吐き出す。だからこそ、大地から植物が萌えはじめる。
そして、地球の吐く息に合はせるかのやうに、人のこころの深みからも、意欲が芽吹いてくる。
春における、そんな人の意欲の萌し、芽吹きは、秋になるころには、ある結実をきつと見いだすだらう。
春、天に昇る龍は、秋、地に下り行く。
その龍は、きつと、この時代を導かうとしてゐる精神ミカエルに貫かれた龍だらう。
秋から冬にかけてキリストと地球のためにたつぷりと仕事をしたミカエルは、その力を再び蓄へるために、春から夏にかけて、キリストと地球のこころとともに、大いなる世へと、天へと、帰りゆく。そしてまた、秋になると、ミカエルは力を蓄へて、この地の煤払ひに降りてくる。
わたしたちの意欲もミカエルの動きに沿ふならば、春に、下から萌え出てき、感官を通して、ものを観て、聴いて、世の精神と結びつかうとする。
そして、秋には、上の精神からの力をもらいつつ再び降りてきて、地に実りをもたらすべく、方向性の定まつた活きた働きをすることができる。
だから、春には春で意識してやつておくことがあるし、その実りをきつと秋には迎へることができる。
それは、こころの農作業のやうなものだ。
外なるすべての感官のなかで、
考への力はみづからのあり方を見失ふ。
精神の世は見いだす、
再び、人が芽吹いてくるのを。
その萌しを、精神の世に、
しかし、そのこころの実りを、
人の内に、きつと、見いだす。
諏訪耕志記
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