2018年02月20日

丁寧で深切な讀み方 伊東静雄


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「讀書といふものは、丁寧で深切でありたいものだ。一字一字を指で押へて、丁度著者が書いてゆくのと同じくらいの速度で讀みたい・・・」
 
さう、伊東静雄といふ昭和の初期に生きた詩人が「讀み方」といふ散文の中に書いてゐる。
 
長崎の諫早出身の彼は、昭和四年(1929年)から大阪の住吉中学(のち住吉高校)の国語教師として肺結核で倒れるまで約二十年間働き続けた。
 
彼は、続けてこんなことを書いてゐる。
 
「わが國の文學の道は、言靈(ことだま)の風雅(みやび)といふことにある。それは、文字の隠微なところに宿るのだ。・・・助詞や助動詞のやうな、それだけでは意味のない言葉こそが、名詞や動詞のやうに誰にも明瞭である言葉より大切だ・・・、その大切さは、深切な讀み方でだけわかる。」
 
彼の全集にこの文章を見いだし、なにとぞこの精神の血縁をと希つてしまふ。
 
「そのへんのことを腹にしみて悟るために、自分は古来の和歌を毎日二、三首づつ讀むことを、忙しい日の読書法としてゐる」
 
精神の成長のために、ほんの少しだが具体的な処方を指し示して下さつてゐる先達に出逢へることほど、ありがたいことはないと思ふ。
 
「古典を讀むといふことが、廣く行はれてゐるさうだが、そこから知識を得てくることよりも、むしろわが國の本当の讀書法を悟ることの方を、期待してゐる。正しい讀み方で、不知不識の間に養はれる志の方に期待してゐる」
 
本を讀むといふことは、本を讀み漁ることとは根本から違ふ。さういふ精神を彼は青年たちに伝へようとしてゐたのだらう。
 
住吉高校は、我が家から歩いて十分ほどのところにある。ちなみにわたしが入試落第したところ。
 
今も走つてゐる南海の上町線(路面電車)に、伊藤静雄も毎日乗つて学校に通つてゐた。
 
初出勤の時、ぼろぼろでだぶだぶの背広を着てゐて、「乞食」といふニックネームを生徒たちからつけられてゐたさうだ。
 
挙げたい詩作品は数多あれど、今日は、こころの清澄と悲しみ、そして静かな氣の漲りを伝へるふたつの作品を挙げたい。
 
 
 
『咏唱』
 
秋のほの明い一隅に私はすぎなく
なつた
充溢であつた日のやうに
私の中に 私の憩ひに
鮮(あたら)しい陰影になつて
朝顔は咲くことは出來なく
なつた
 
 
『野の樫』
 
野にひともとの樫立つ
冬の日の老いた幹と枝は
いま光る緑につつまれて
野の道のほとりに立つ
 
 往き還りその傍らをすぎるとき
 あかるい悲哀と
 ものしづかな勇氣が
 人の古い想ひの内にひびく
 



posted by koji at 19:44 | 大阪 | Comment(0) | 読書ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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