春日大社のおんまつり
わたしたち「ことばの家」がしてゐることは何だらう。ふとさう思つた。
それは、「遊び」だ。「遊び」とは神と交わることだ。
「遊び」であり、また「労働」だ。それは、同じことである。
さらに言へば、「祭り」だ。
祭りを執り行ふには、準備が要る。
古来、日本といふ国に於ける祭りの準備とは、神に捧げるものの生産のことでもあつた。米であり、餅であり、酒であり、その他この一年に生産・収穫・加工されたものを神に感謝して神の前に捧げるべく、働くことが、そのまま祭りの準備だつた。その労働は、人力で成し遂げられるといふ思ひ込みでなされるのではなく、大いに神のご加護とご神威をもつて成し遂げられるのだといふ信仰心とひとつであつた。生産のための労働自体がすでに信仰的行為だつた。日本では、そもそも、経済活動と信仰活動がひとつだつた。
それらが神前に捧げられ、そして改めて民のいのちを養ふ糧として民がそれらを頂き、神と共に飲み食い、饗宴すること、さらにこの年の豊作への感謝と来たる年の収穫を乞ひ願ふことばを祝詞として唱へること、舞ひ踊ること、それが祭りといふものだつた。
その意味で、準備としての生産と、祭りとは、ひとつのものであつた。
わたしたち「ことばの家」は、毎日の稽古を通して、「ことば」をだんだんと練り上げ、磨き上げ、研ぎ上げながら、言語作品を生産してゐる。
それは、祭りに向けてのひたすらな準備である。
わたしたちにとつては、舞台公演といふものが、まぎれのない「祭り」であり、「ことばが肉となること」を多くの人と共に喜び、祝ひ合ふ場である。
生産物が神前に供へられ、同時にそれらが民の糧ともなるやうに、来たる年も、わたしたち「ことばの家」は、ことばを生産し、それを皆で「こころの糧、魂の糧」として食すことができるやう、毎日を遊びつつ、働きつつ、生産に励んでいきたいと思つてゐる。
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