2017年11月18日
ときの変はり目
今日は、旧暦十月一日。神無月の新月。
今朝、夜が明けたときに、本当に新しくなつたことを感じた。何が新しくなつたかは、ごめんなさい、説明なしで。
この前の日曜日から、わたしは三十九度ほどの熱のまま、五日間を医者にも行かず過ごしてしまひ、つい二日前にやつと医者に診てもらひ、肺炎の診断を受けた。
この一週間、仕事はすべてできなかつた。
夜も、この七日間はほとんど一睡もしてゐない。
といふのも、考へが目を閉じても止まらないのだ。
何かのひとつのことば、ひとことをきっかけに、青天の霹靂のやうに怪鳥のやうな考へが舞い降りて来て、そいつが跳梁跋扈する。
猛烈な勢いで走り回ってその考へが終着地点に辿りついたとしても、またどこか別の場所を求めて終わりなく考へることを止めようとしない。
そして、すぐに朝が来てゐる。
普通は、考へといふものは、死んでくれてゐる。
死んでくれてゐるからこそ、昼間、自由に、その死んだ考へをつぎはぎしてわたしたちは生きてゐる。
考へがいのちを得る、とは、こんなにも恐ろしいことなのか。
こんなにも、人を引き摺り、引っ張り回すものなのか。
わたしの場合は、三十九度の高熱が、この状態をもたらし、意識を覚醒させたまま、精神世界のありやうに触れさせてもらつてゐるのだらう。
だから、一週間眠つてゐないのにも関はらず、昼の体力は大変に消耗してしまつてゐるのだが、意識は全く混濁してゐない。
肺炎といふ病も、言語造形といふ息の仕事をしてゐる自分にとつては致命傷にもなりかねないものであつた。いのちにも係わる病であつた。
また、いま書こうとしてゐる『丹生都比売』といふ舞台の戯曲のために、肺と水星の関係について学び始めた途端にこのやうなことが起こるといふことも見通し切れない意味がありさうだ。
そして、何が起こらうとも、感謝したい。
本当に、ありがたい。
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