2017年11月02日
意識して前の時代に立ち戻る
現代に於いては、子どもを教育するとき、若い人を教育するとき、自分自身を教育するとき、教へる人(自分自身)は古い時代のありかたに、意識的に立ち戻る必要がある。
この「意識して」と云ふところが、單なる先祖がへりではなく、いまならではのわたしたちのありかただ。
現代の人が頭に抱く〈考へ〉。それは、科学的であること、理智的であること、客觀的であること、さうであつてこそ、その〈考へ〉は外の世を生きていく上で欠かせないものになるだらう。その〈考へ〉は、外の世の発展に大いに寄与するだらう。
これらの<考へ>を、いかにして效率よく若い人たちに教へ込んでいくかが、現代教育にいまだに見られるありかたかもしれない。
しかし、それらの<考へ>は、肝腎かなめの、人を育てない!
人の中身を育てない。
頭のいい人を世に出すかもしれないが、情をもつて、寛やかに、暖かく、意欲をもつて、確かに、熱く、考へることができにくい人を創つてしまふ。
それは、<考へ>と云ふものが、いまは、ことごとく、死んでゐるからだ。
死んだ<考へ>をいくら与へられても、生きた人は育たない。
いかにして、死んだ<考へ>に、いのちを吹き込み、再び生きた<考へ>をこころに植ゑていくか。
これは、15世紀以前においては當たり前にしてゐたことで、<考へ>にはそもそもいのちが宿つてゐたからだ。
だからこそ、人は、その生きた<考へ>に、生きものに沿ふやうに附き合ひ、從ふことで、精神からの、神々からの、恵みと戒めを授かつてゐたのだ。
アジアにおいては、とりわけ我が国にをいては、その前時代の<考へ>のありかたが15世紀以降も殘つてゐたやうで、わたしたち日本人独特の、ものの考へ方、感じ方に、他と比べて劣つた、後進性を見てとるのか、むしろ微笑みをもつて誇りを感じ、この特異性を生かす道を新しく見いだして行くのかは、人それぞれだらう。
それは、ともかくも、現代において、その死んだ<考へ>を子どもたちに与へることを止めて、前時代のやうにおのづから息づいてゐた生きた<考へ>を、新しく意識的に子どものこころに植ゑていくこと。
小学校時代の子どもたちには、正しいことを教へ込むのではなく、美しいことへの感覺をひとりひとりの子のなかから引き出したい。
中・高時代の若い人たちには、仕上がり濟みの<考へ>・定義を教へ込むのではなく、觀察し、ひとりひとり新しく活き活きと考へ、ともに語り合ふ場を創つていくことを助けたい。
そもそも、どの子のなかにも美しさへの感覺はあり、どの若い人のなかにも、自分自身で、まこととは何かを考へる力があるのだから。
その「美への感覺」「まことを追ひ求める力」、それを誘ひ出すやうな、像をもつた語り口。そこに、生きた<考へ>が宿る。
いづれも、この世に生まれてきて、まだ年かさもゆかない人たちが、一個の存在としての己れに不安を覺え始めてゐるときに、世と云ふものと再び鮮烈に出会ふことへと促していくのが、傍にゐる大人の役目。
そのためには、大人であるわたし自身が、毎日、鮮烈に、世と云ふものと出会つてゐるのか?どうなんだ?
さう、改めて、自分自身に問うてゐる。
その毎日の鮮烈な出会ひを産みだしていくためにどうしていつたらいいかを、仲間と共に探つていきたい。
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